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2022年6月21日 (火)

姿見の井戸を訪ねて

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は名水ではありませんが、麗人がかかわった井戸(清水)です。実際はともかく、多くの場合「姿見の井戸(清水)」などと呼ばれます。写真は秋の大原で、大原のバス停から寂光院に向かいます。

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平徳子(1155-1214)は父・平清盛、母・平時子の間に生まれ、異母兄に重盛、基盛、同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいます。1171年高倉天皇(後白河法皇の第7皇子)が元服すると、入内して中宮となりました。

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1178年11月12日徳子は言仁親王を出産、翌12月には立太子しました(皇位継承者となる)。1180年高倉天皇は3歳の言仁親王(安徳天皇)に譲位して院政を開始するも翌年21歳で崩御。同年清盛も熱病に倒れて急死しました。

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やがて各地で源氏が挙兵、重盛ら平家軍は、安徳天皇、徳子ら一族を引き連れて都落ちしました。そして、平氏は1185年3月24日壇ノ浦の戦いで滅亡しました。わが子・安徳天皇を失うも、徳子は助けられて都に連れ戻されました。

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「朧の清水」 出家した建礼門院(徳子)は隠棲の地・寂光院に向かう途中、このあたりで日が暮れてしまいました。月光のもとで、清水の水面に写る自分のやつれた姿を見て嘆いたとされます。

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寂光院には建礼門院が隠棲した住居跡やその井戸、隣に大原陵が現存します。

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「紫式部」の住居跡とされる蘆山寺は先日紹介しましたが、今日はもう少し詳しく説明します。「紫式部」は藤原北家の越後守・藤原為時の娘として生まれました。

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そして、曽祖父の権中納言藤原兼輔が建てた邸宅・堤第で生まれ育ちました。父・為時は副侍読を務めていた東宮・師貞親王が永観2年(984)即位(花山天皇)すると蔵人、式部大丞と出世しますが、花山天皇が出家すると官職を辞任します。「薬医門」

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紫式部の名はこの時の父の官職名です。紫式部は長徳4年(998)頃、年が離れた山城守・藤原宣孝と結婚し長保元年(999)に一女・藤原賢子をもうけます。そのときも堤第で生活したといわれています。

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ところが長保3年(1001)に夫・宣孝と死別。その後、寛弘2年(1005)頃一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女)の女房、家庭教師役となり、少なくとも寛弘8年(1012)頃まで仕えたと考えられています。

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彰子のもとで宮中に仕えていた時期に『源氏物語』を書いたとされています。紫式部は宮中を退いた後も堤第に住み、長元4年(1031)頃に59歳ほどで死去したといわれています。

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「雲水(くもみず)ノ井跡」 紫式部が女房として仕えた藤原彰子が、法成寺内に建てた東北院にあった井戸とされます。紫式部が身だしなみを整える際に、この井戸水に顔を映したともいいます。現在では枯れています。

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ところで、堤第は正親町小路南、東京極大路東の鴨川堤にあったとされ、そのため曾祖父の藤原兼輔は堤中納言と称されました。昭和40年(1965)考古学者角田文衛博士(1913-2008)によってこの地が堤第の跡地であることが発表されました。

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次も先日登場した菅原道真と吉祥院天満宮ですが、産湯の井戸ではありません。弁財天社の横にある「鑑(かがみ)の井」、道真が参朝(朝廷に参内)する際に顔を写したといわれる井戸が復元されています。

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菅原家の邸宅としては御所に近い菅原院(現在の菅原院天満宮神社)がありますが、こちらに住まいしていたとしたら鏡代りに使ったかも知れません。

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「小野小町」は平安時代前期9世紀頃の女流歌人で六歌仙、山科の随心院はその邸宅跡といわれています。3月の中旬から下旬にかけ見頃となる「はねずの梅」で知られ、3月の最終日曜日には「はねず踊り」が行われます。

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「はねず踊り」は昔、深草の少将がこの地に住んでいた小野小町に求愛して百夜通いの悲願をこめて通い続けた伝説を題材にした民謡踊りです。踊りは小学4~6年の女の子で、1番では深草の少将が百夜通いを始めたことを歌います。

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2番では、九十九夜の雪の日、小町が誘い入れると少将は代理の者に行かせていたのです。3番、4番では何事もなかったように小町はこの時期に里の子供たちと楽しく過ごす情景をうたっています。

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梅園の東は竹林になっていて、小野小町の邸宅跡ともいわれています。向こうに「小野小町化粧井戸」があります。小町の邸宅にあった井戸ともいわれ、今でも水が湧いています。向こうには「深草少将百夜通いの道」もあります。

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伝承では、小町を深く愛した少将は、百夜通いがかなった後に結婚するつもりでしたが、雪が降る99夜目に亡くなってしまいました。次の二つの寺には異なる話が伝わっています。

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東福寺塔頭の「退耕庵」は室町時代初めの1346年、東福寺第43世・性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建。応仁の乱により一時荒廃しましたが、1599年安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興されました。

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かって東山の渋谷街道に、小野寺という小野小町ゆかりの寺がありました。江戸時代には、洛陽四十八願所地蔵めぐり札所となり、札所本尊は「玉章(たまずさ)地蔵」と呼ばれていました。明治7年(1874)廃寺となり、玉章地蔵、扁額、井筒などが当寺に遷されました。

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「小野小町百歳井」 小町の生没年は不詳ですが、長生きしたとはいわれています。井戸に映った自らの姿を見て「面影の 変わらで年の つもれかし たとえ命に 限りあるとも」と詠んだといわれています。

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鞍馬へ向かう府道40号が市原を通るあたりに、江戸時代に切り拓かれた「篠原の切り通し」といわれる峠道があります。峠の崖の「補陀落(ふだらく)寺」は山号を如意山(にょいさん)といい、小町寺(こまちでら)とも呼ばれています。

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この寺には小野小町の伝説が伝えられています。平安時代前期、小町の父・出羽守小野良貞の邸宅がかこの地にあったとされます。下は小野小町「姿見の井」との伝承があり、かっては名水として知られていたといいます(現在は枯れています)。

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本堂左に深草少将の墓「宝篋印塔」。宮仕えを退いた小町のもとに、求愛のため深草少将が百夜通を始めます。小町もその成就を心待ちにしていました。ところが99日目に、父の御所への放火の疑いで、少将と父は伊豆へ配流され、その地で亡くなってしまいました。

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「小野小町供養塔」 小町は少将への操をたてて、その菩提を弔いこの地で亡くなったと伝えられています。本堂には、本尊の隣に鎌倉時代作の「小野小町老婆像」が祀られいます。痩せ衰えて右手に杖を持った小町80歳の姿といいます。

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後に西行がこの地を訪れたとき、小町の髑髏からはススキが生え、亡霊は「秋風の吹くにつけてもあなめあなめの小野とはいはじ芒生ひたり」と詠んだとされます。供養塔は、鎌倉時代後期作で、初層塔身に四方仏の薬師、釈迦、弥陀、弥勒が彫られています。

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供養塔の後の小野小町歌碑、「はなの色はうつりにけりな いたつらに 我身よにふるながめせしまに」。

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コメント

鏡がほとんど無かった時代は、
井戸も鏡代わりになっていたのですね。
そう思うと、今はいい時代になったものですよね。
手鏡なんて、昔の人が見たらびっくりするでしょうね。

投稿: munixyu | 2022年6月21日 (火) 17:28

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