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2022年6月25日 (土)

与謝蕪村の足跡をたどる

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は与謝蕪村の足跡をたどります。松尾芭蕉を深く敬愛していた与謝蕪村(1716-83)は、芭蕉の『おくのほそ道』の全文を書写し、絵を添えた4件の作品が知られていましたが、先日新たに5件目となる作品が発見されました。

しばらく写真は、蕪村が芭蕉庵を再興した金福寺です。「金福寺(こんぷくじ)」は山号を佛日山という臨済宗南禅寺派の寺院です。詩仙堂や圓光寺に近く、石段の上に山門があります。

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金福寺は平安時代に創建、江戸時代前期に圓光寺の鉄舟和尚により再興されました。鉄舟は松尾芭蕉と親交があり、貞亨年間(1684-1688)芭蕉が京都を訪れたとき金福寺にも宿泊したといいます。

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芭蕉が泊まり、鉄舟と風雅を語り合った建物は「芭蕉庵」と呼ばれましたが、後に荒廃。江戸時代中期の1776年、俳人・画家の与謝蕪村は住持・松宗(しょうそう)の了承を得て、荒廃していた芭蕉庵を再建しました。

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与謝蕪村は摂津国東成郡毛馬村(けまむら)に生まれました。京都府与謝野町の谷口家には、「げん」という女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村たとする伝承があろ、げんの墓が残っています。呉春作・与謝蕪村

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20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん、夜半亭宋阿)に師事して俳諧を学び、師が没後の27歳の時、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊しました。本堂の「残照亭」

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その後天橋立に近い宮津の見性寺住職・触誉芳雲に招かれ丹後に滞在、与謝野町には蕪村の絵が複数残っています。(本堂には芭蕉や蕪村、祇園の芸妓でこの寺で出家した村山たか女に関する資料が展示してあります。

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床の間の「蕪村筆 芭蕉翁像」 この肖像は当寺のために蕪村が1779年に描いたもので、芭蕉の肖像画として最も優れているといわれています。肖像の上に賛として清田たん叟の撰文と蕪村が選んだ芭蕉の句が書かれています。

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42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになりました。45歳頃に結婚して一人娘を儲け、51歳には妻子を残して讃岐に赴き多くの作品を手掛けました。再び京都に戻った後、島原角屋で句を教えるなど、以後は京都で生涯を過ごしました。

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蕪村筆「奥の細道画巻」蕪村は奥の細道の全文を書き、14の場面に俳画を挿入しました。文と画が相まって「風流洒落」の雰囲気が溢れているといわれています。池田市・逸翁美術館所蔵(重文)の複製です。他にも様々な資料が展示してあります。

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島原・角屋にある長谷川等雲「唐子の図」の襖絵、ほかに応挙・蕪村などの作品があり、蕪村の「紅白梅図」は重要文化財。 江戸中期の島原には俳壇が形成され、角屋の6、7代目の当主は、蕪村・太祇らを師として俳壇の中核として活躍しました。

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角屋の隣りに「東鴻臚館(ひがしこうろかん)跡」があり、与謝蕪村の句「白梅や  墨芳しき  鴻臚館」。この館は渤海国の使節だけの迎賓館で、「墨芳しき」は鴻臚館で行われた歓待の歴史を表しています。

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京都駅の近く、梅小路公園から二筋東にある「宗徳寺(そうとくじ)」は室町時代の応永年間(1394~1428)に行阿上人によって創建された西山浄土宗の寺で、山号は福智山です。

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「粟嶋堂」宝徳年間(1449-52)南慶和尚が紀伊国淡嶋から粟嶋明神を勧請、江戸時代にはその霊験が広く知られるようになり庶民の信仰を集め、光格天皇や孝明天皇も度々代参、后妃にも篤く信仰されたといわれます。

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粟嶋堂の向かいに蕪村の句碑「粟嶋へ はだしまゐりや 春の雨」、蕪村は娘の病気平癒祈願に当寺を訪れ、雨の中に裸足でお詣りしている人を詠んだ句です。

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仁和寺のおむろ桜、与謝蕪村「ねぶたさの 春は御室の 花よりぞ」

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足跡ではありませんが、六角通にお煎餅のお店「蕪村菴」があります。全て国産米を使用して四季の彩りを表現したあられ「蕪村あられ春秋」や「青磯のかほり」などお土産、贈り物、お茶請けまでに適しています。

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蕪村の俳句を表した和菓子も有名で、割れおかきもあり、全国百貨店で販売。下は「蕪村あられ春秋」。

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神泉苑の観月会 蕪村「名月や 神泉苑の 魚おどる」、御朱印にも書かれているそうです。

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金福寺に戻り高台の芭蕉庵を見に行きます。庭の隅の句碑、蕪村「花守は野守に劣る今日の月」、百池「西と見て日は入りにけり春の海」寺村百池(ひゃくち)は糸物問屋で蕪村門下、蕪村没後は京都俳壇の重鎮となります。

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京都では、蕪村を中心に結社「三葉社」が生まれ、夜半亭2世を継ぎました。「奥の細道屏風図」や池野大雅との合作「十便十宜帳」を描き、江戸俳諧の中興の祖、俳画の創始者といわれています。(上って来ると市街が見えてきます。)

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「芭蕉庵」は茅葺き屋根、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっています。芭蕉庵ではしばしば句会が催されました。

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蕪村がここで詠んだ秋と冬の句「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の聲」、「冬ちかし時雨の雲もこゝよりぞ」。(芭蕉庵からは市内北部から愛宕山まで見えます。

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芭蕉庵の横に芭蕉がここで詠んだ句碑「うき我を淋しがらせよかんこどり」、その奥に鉄舟が芭蕉をもてなしたという井戸「芭蕉水」があり、今でも水が湧いています。

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井戸の横に「芭蕉の碑」があります。1776年に蕪村や俳人・樋口道立(どうりゅう)が建て、芭蕉を讃えた文が刻んであります。蕪村は碑の建立時に「我も死して 碑に辺(ほとり)せむ 枯尾花」と詠み遺言としました。

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蕪村は仏光寺通の自宅で亡くなり、遺言のように、弟子たちは斜面を上ったところに蕪村の墓を造りました。蕪村と門下・江森月居の墓 蕪村の辞世「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」、月居「朝霧にまぎれて出む君が門」。

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墓への道の途中に見晴らしのよい場所があります。1935年に高浜虚子は蕪村の墓を訪ね、このあたりで詠んだ句が「徂(ゆ)く春や京をひと目の墓どころ」。左奥は愛宕山、右は船形、手前の緑の線は賀茂川の並木です。

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ところで、最初に述べた新発見の作品とは、今年2月に所有者から情報提供があり、筆跡などから京都国立博物館が蕪村の『奥の細道図巻模本』と確認したものです。今年6月14日(火)~7月18日(月・祝)の期間、京都国立博物館で特別展示されています。

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作品は長さ18m余の絵巻の9か所に蕪村が描いた絵が添えられています。蕪村が書き写した奥の細道の中で、もっとも早い時期に制作された作品で、以後の起点となる重要作と位置付けられるそうです。

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コメント

未だに新発見の作品が出てくるから、凄いですよね。
出てくるものは、出てくるのかもしれませんが、
歴史のロマンを感じずにいられません。
もっといろんなものが、発見されるといいですよね。

投稿: munixyu | 2022年6月25日 (土) 18:46

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