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2022年6月14日 (火)

京の名水をめぐる 西山の水(その2)

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日に続いて京の名水めぐり、西山の水の2回目です。上は仁和寺の二王門から中門方向、名水は突き当りの金堂から左の西門方向にあります。

鐘楼の横に「御室水掛不動尊」(重文)への参道があり、この不動尊には伝承があります。昔、堀川の一条戻橋が洪水で流され、その復旧工事のとき橋の下からこの不動尊が見つかり、しばらくその地に安置されていました。

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ところが、心無い者が悪戯するので不動尊が仁和寺に帰りたいと住民にお告げをして、ここにある石の上に遷されました。その後、石の下より泉が湧きだしたといいます。水を掛けて祈願することから、水掛不動とも呼ばれ、近畿三十六不動霊場の第十四番札所。

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参道の途中の「閼伽(あか)井」仏様にお供えする水(閼伽)を汲む井戸です。右手前の石標の側面に「あらたまの年の初御仏の御加持のふしに奉る水」と彫ってあります。弘法加持水ともいわれるそうです。

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北野天満宮にある「太閤井」 天正15年(1587)九州平定を終えた豊臣秀吉は、朝廷や民衆に権威を示すために、北野の森で大規模な茶会を開き、自らの茶道具を公開、町人、百姓を問わず招待するとのお触れを出しました。

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茶道具がない物は代りの器だけ持参すればよく、遠国からの者に配慮して10日間開催することにしました。しかし、茶会は2日目以降は中止されました。初日の夕方に肥後国人一揆発生の知らせが入ったからという説が通説です。「北野大茶湯之址」

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参道の途中にある「松向軒(しょうこうけん)」 北野大茶湯の際に、細川三斎(細川忠興)が建てた茶室を復元したもので、茶の水を汲んだといわれる井戸があります。

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「白峯神宮」 明治元年(1868)父の遺志を継いだ明治天皇は、公卿の「飛鳥井家」の邸宅地跡に社殿を建造して、四国・坂出の「白峰山陵」から崇徳天皇の御霊を遷して祀りました。

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手水舎の「飛鳥井」は、清少納言が『枕草子』で九つの名水の中にあげてほめ讃えています。後ろの賀玉の木もかって邸宅にあったとされ、天然記念物です。

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晴明神社は、平安時代中期の寛弘4年(1007)一条天皇の命により創建。安倍晴明の偉業を讃えその霊を鎮めるため、その屋敷跡である現在地に社殿が設けられました。

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「晴明井」手水舎の右に晴明が念力により湧出させたという井戸があります。湧き出す水は現在でも飲め、病気平癒のご利益があるとか。水の湧き出るところは、その年の恵方を向いていて、立春の日に向きを変えるのだそうです。

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「本隆寺」 室町時代中期の長享2年(1488)日蓮宗の僧・日真が後柏原天皇から大和尚の称号を下賜され、四条大宮に堂宇を建立したのが始まりです。

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本堂の前に、かって西陣五名水の一つといわれた「千代の井」があります。西陣焼けのときには本堂の柱に火が移りましたが、本堂に祀られている鬼子母神がこの井戸で水を汲んで火を消したといわれます。

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また、座禅修行をしていた千代野姫(無外如大尼)が水を汲んでいたら、桶の底が抜けて月影が水とともに消えたので、仏道に入ったといもいわれています。現在は枯れて井桁だけが残っています。

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隣の「雨宝院」は平安時代前期の821年、弘法大師・空海が堂宇を建立して歓喜天(聖天)像を祀ったことに始まるといわれています。手水舎に弁財天が祀られていて、井戸の「染殿井」を水の神として守っていると考えられます。

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染殿井は「西陣五水」の一つで、飢饉の際にも水が涸れたことはなく、染色に適していたことかこの名で呼ばれました。

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「首途八幡宮」平安時代の初め、この地は清和天皇の第6皇子・貞純親王の屋敷があり、広い敷地に池や築山があり、桃の木が多く植えられていました。平安時代の末には商人・金売吉次の屋敷となり1149年屋敷内に「内野八幡宮」を建てたのが当社の始まりです。

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1174年3月3日鞍馬寺に預けられていた牛若丸(義経)が奥州平泉の藤原秀衡を頼って京を旅立つとき、当社に立ち寄り、道中の安全と武勇上達を祈願して出立したとされます。以来、首途(かどで)八幡宮と呼ばれるようになりました。「本殿」

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『雍州府志』によると、金売吉次の邸内には大きな井水があり清冷な水が湧いていました。その後、首途八幡宮の社務所内の井戸「桜井」は「西陣五水」の一つとして知られるようになりましたが、現在は失われてしまいました。「社務所」

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かっての桜井にあやかって、隣の桜井公園に井戸が掘られ、小川や池の水源となっています。生垣の向こうが社務所なので同じ水脈だと思われます。千代の井、染殿井、桜井ともに近く南北の直線状に並んでいるので同じ水脈だと思われます。

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今まで名前は出てきた「左女牛井(醒ヶ井,さめがい)」 源頼義(988-1075)がこの地に築いた源氏六条堀川邸内の井戸。村田珠光(1423-1502)が将軍足利義政(1436-90)に献茶した際にこの水を汲み、千利休(1522-91)らも愛用したといいます。

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第二次大戦中の堀川通の拡幅により消滅しました。この石標はその井戸跡を示すもので、醒泉小学校創立百周年紀念事業として建立。堀川五条下る京都東急ホテル南にあります。

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コメント

京都は、水1つ取っても、奥が深いですよね。
湧き水で点てた点茶なんかも、美味しいんでしょうね。

投稿: munixyu | 2022年6月14日 (火) 19:10

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