花屋町通を歩く 堀川から西洞院通へ
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
先日、西本願寺の東北の角から、花屋町(はなやちょう)通を歩いて島原まで行きました。今日は、逆方向に東本願寺の方に向かって歩きます。上の写真で右は「井筒佐女牛ビル」、左は「一行寺」。
花屋町通は平安京の左女牛小路(さめうしこうじ)に相当する東西の通りで、東西の本願寺が造営されたときそれぞれ中断しました。井筒佐女牛ビルには、風俗博物館など様々なテナントが入っています。
後に、住民の要望で両本願寺の北端を通るように烏丸通から堀川、大宮通まで花屋町通が新設されました。両本願寺の間に残るかっての花屋町通は旧花屋町通、あるいは新しい通りを新花屋町通と呼んだりします。ローソンが入っています。
二つのビルの間に「左女牛井の庭」があり、名水の左女牛井(醒ケ井)が左女牛小路の名称の由来です。その向うにある「慶證寺」は永録年間(1558-1570)大坂石山本願寺のそばに創建、本願寺とともにこの地に移転してきました。
「一行寺」は、西本願寺が移転してからその境内に1658年に創建されました。門徒を持つ寺ではなく、西本願寺に出仕する僧侶がいる寺だったそうです。初代の道空の出生は不明ですが、おそらく在家の人間が出家したのではないかと思われます。
時は流れ、一行寺も老朽化が進み建て直す必要が生まれました。その頃には門徒の方々をもつお寺になっていたため「限られたスペースに、いかに多くの人が集まることができ、かつ、古くからの伝統を受け継いでくか?」と考え、現在の建物になったそうです。
一行寺の横から花屋町通に入ります。左は「井筒法衣店」。
その隣に浄土真宗本願寺派の「名声(みょうしょう)寺」があります。右の通りは油小路通。
山門は油小路通に面しています。今のところ名声寺の情報はありませんが、何か分かれば追加しておきます。
油小路通の南に洋館の浄土真宗本願寺派 京都教区教務所があります。
京都教区教務所は、京都にある浄土真宗本願寺派のお寺をまとめる事務所です。大正12年竣工の「顕道会館」は入り口の3つの大きなアーチが印象的な建物で、年間を通じて会議や研修などが開催されています。
花屋町通に戻って、左に「GOOD YEAR]の看板があるのは「森清モータース」。
向いにお店(ショールーム)があります。
「東中筋通」との交差点北東に「浄土真宗本願寺派 国際センタ」。西本願寺と海外を結ぶ窓口で、海外の本願寺派の活動の紹介、海外で活躍する開教使の養成、翻訳事業などを行っています。
センター内に浄土真宗本願寺派の直属寺院「本願寺至心教堂(ほんがんじししんきょうどう)」があります。住職は浄土真宗本願寺派門主が兼務、主管が置かれて実務を管理しています。
同じく、交差点南東には「蓮光寺」、おそらく西本願寺と運命をともにしてきた末寺と思われます。龍谷大学の前身は僧侶の教育機関「学寮」でしたが、1655年、興正寺と本願寺との間の騒動のため、幕命で破却されました。
しかし、地方からやってきた所化らを路頭に迷わせるわけにいかず、この通りにあった町医者の揚屋敷を本山が借り受け「学林」という名称で教育を続けたそうです。そのとき、この寺の一部も買い上げて使用したそうです。
その南隣りは「常楽寺」親鸞の玄孫(やしゃご)の存覚(ぞんかく)が開基。この寺では最近大きな発見がありました。2007年所蔵する掛軸「親鸞聖人影像(花の御影)」の下部の軸木に、親鸞聖人の遺骨の所在を示す墨書が発見されました。
翌年3月、所蔵する親鸞の座像(江戸時代頃の作)の首をはずし体内を調べると、親鸞のものと見られる和紙に包まれた骨片が発見されました。(「西洞院通」との交差点。)
西洞院通を南に入った東に「竹重装束店」、日本全国の神社やお祭りで使われる装束・神祭具を扱っています。御神輿から御守りに至るまで何なりとお問い合わせくださいとのことです。ウインドウには御神輿がありました。
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コメント
親鸞の骨片の発見とはまた、
とんでもない大発見ですね。
座像の中とは、その墨書が見つからない限り、
絶対に見つからなかったでしょうね。
他にも像をスキャンしたりすると、いろんなものが
見つかるかもしれませんね。
投稿: munixyu | 2022年6月 1日 (水) 15:43