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2022年6月24日 (金)

御土居をめぐる

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は現存する御土居を訪ねてあるきます。「御土居(おどい)」は豊臣秀吉によって造られた京都を囲むように造営された土塁です。ここ北野天満宮の御土居はは紙屋川の土手を兼ねていました。

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その後の御土居がたどった歴史を見てみましょう。以下の写真の説明はありませんが、二つの橋の間の川沿いの道で撮ったものです。

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豊臣政権が崩壊すると、御土居は各地の京都への出入口で切断され、寺社や公家に払い下げられました。また、取り壊されて住宅地となったり、残った部分は竹を植えて徳川幕府が管理するようになりました。

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竹を植えた理由は、景観のため、あるいは土塁が崩れるのを防ぐためと考えられています。

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鷹峯街道を北山通からしばらく行くと、西(左)に「史跡 御土居跡」があり、その前に和菓子屋さんが店を構えています。御土居跡は鍵がかかったフェンスで囲まれていて、店のご主人がその管理を任されているそうです。

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御土居はこのあたりまでは紙屋川の土手を兼ねていて、ここで東に向きを変えます。鷹峯街道が洛中から出る場所でもあり、京の七口の一つ「長坂口」と呼ばれています。

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「しょうざんリゾート京都」は、光悦寺の南西で、紙屋川沿いの史跡御土居に隣接した広大なリゾート施設です。

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南北の通路の東には御土居が残っています。このあたりでは紙屋川の堤防を兼ねていて、南にある北野天満宮の御土居跡に続いています(紙屋川は下流では天神川ともよばれています)

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江戸時代前期の寛永18年(1641)に始まる東本願寺の新たな寺内町の開発に伴い、御土居は高瀬川とともに東側に移されました。「枳殻邸(渉成園)」

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枳殻邸の築山や印月池に浮かぶ中の島などの位置は移築前の御土居に重なるため、土塁を再利用したと考えられています。

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明治になって、幕府が所有していた御土居も民間の所有となり、多くの竹林は伐採されて農地になりました。(最近何度も登場している「蘆山寺」の墓地に御土居が現存しています。)

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大正時代になると京都の市街地が拡大して、御土居の大部分が壊されて住宅地となってしまいました。(御土居の東側にあたるこのあたりは、鴨川の氾濫から市街を守る堤防としての役割もありました。)

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東の御土居の内側に寺町通を造って寺を並べたのは、防壁の役目をより強化するためともいわれています。江戸時代になると次々と御土居は壊され、東ではここが唯一残っている部分です。境内と住宅との境界にあったので壊されずに残ったようです。

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昭和5年(1930)に市内に残る御土居のうち8箇所が、京都の沿革を知り、我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定され、昭和40年(1965)に北野天満宮境内が追加されました。

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「史跡 大原口道標」 江戸時代の寺町今出川は大原口といわれる重要な辻でした。北へ行けば出町を経て大原から若狭への街道、東は鴨川を越えて白川越(山中越)につながるという交通の拠点で、南と西は京の市街地へとつながります。

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この地は豊臣秀吉が造営した御土居に大原口が設けられた場所です。慶応4年(1868)地元人18名によって立てられ、4面に方角と22か所もの目的地名が距離とともに示され、道標としての最大限の情報を備えています。

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加茂街道(府道38号)を北上すると、加茂川中学の前に御土居跡があります。ここは鷹峯の方からくる御土居が賀茂川にぶつかって、南に折れる場所です

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街道が走る土手が高いのでわかりにくいですが高さはかなりあり、堀川通のために中央が分断されています。(ストリートビューから)

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最後は再び北野天満宮で、紅葉の頃のライトアップです。豊臣秀吉が御土居を築いた目的の一つは、洛中・洛外を明確にして京都の復興に役立てることだといわれています。

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天下人となった秀吉が征夷大将軍ではなく関白を選んだことは、かっての(武家)摂関政治を目指していたと考えられています。現存する御土居のすべてはまだ見ていませんが、秀吉の夢のあとをたどった気がしました。

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コメント

御土居の効果はどれくらい期待できるものだったのでしょうか。
馬が飛び越えるのを阻止することは、できそうな気がしますが、
どこまで高くなる予定だったのでしょうね。
高くなれば、強い力になったかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2022年6月24日 (金) 20:09

★munixyuさん こんばんは♪
秀吉は御土居を洛中、洛外の境界にしようとしたといわれています。戦国時代で荒廃した京都(洛中)の復興を、目に見える形で示そうとしたようです。

投稿: りせ | 2022年7月 5日 (火) 01:27

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