京の名水をめぐる 鴨川流域
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
最近何度も登場しますが「上賀茂神社」の境内には名水が湧いています。上は境内西の車参道から、祭神の賀茂別雷神が降臨したと伝えられる神山が見えます。
本殿に行く途中にある手水舎、神山からの新鮮な湧水が使われています(最後の写真も)。
数年前にオープンした「神山湧水珈琲 煎(せん)」 神山湧水の成分を味の素AGFが調べ、合うコーヒー豆をブレンドして提供しています。
「下鴨神社」の御手洗(みたらし)池(川)、土用になると池の周辺や川の底から清水が湧きでるところから鴨の七不思議にかぞえられ、湧きあがる水泡の姿を団子にかたどり、みたらし団子が生まれました。
奥にある御手洗社(井上社)の下から水が湧いています。また、土用の丑の日にこの池の清水に足をつけると疫病や脚気にかからないとされ、無病息災を祈ってお祓いをうける御手洗社の足つけ神事が行われています。
出町のタネ源さんの前の手押しポンプと水場。鴨川の下にはその何倍もの水量の伏流水が流れているといわれています。特に、鴨川右岸に沿って名水といわれる水脈があり、近くの出町枡形商店街もこの水脈が重要な役割をしています。
「清荒神(きよしこうじん)」は、正式名称を「護浄院(ごじょういん)」という天台宗延暦寺派の寺院で、このあたりの荒神という地名の由来となりました。
荒神尊は不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈(かまど)の神として民間にも荒神信仰が広がりました。西門の横の手水舎には名水「無垢の井」が湧いています。
「梨木神社」 明治18年(1885)久邇宮朝彦親王の発議により、明治維新の功労者三條実万(さねつむ)を祀るために創建され、別格官幣社に列せられました。 「中門」
中門の手前の左に「染井(そめのい)」があります。このあたりは平安時代の公卿、藤原義房・娘明子の邸宅・染殿第があった場所です。この井戸は「洛中三名水」(醒ヶ井、県井、染井)のうち唯一水が湧いている井戸です。
この井戸は、文徳天皇の皇后となった明子の里御所の井戸として掘られ、宮中での染物にも使われたことから、染井と呼ばれました。祐井、県井とともに「御所三名水」の一つでもあります。
京都御苑の迎賓館の塀の傍に「染殿第跡」の看板と「染殿井」という井戸跡があります。梨木神社の染井に近い距離にあり、染殿第がこの付近にあったことは確かなようです。
藤原義房は娘の明子に惟仁親王が生まれると、染殿第の南に仏心院を建てて明子を住まわせました。文徳天皇は若くして亡くなり、良房は9歳の惟仁親王を即位させ(清和天皇)、藤原氏の摂関政治のきっかけとなりました。
「蘆山寺」は、平安時代の天慶年間(938-947)天台座主元三大師良源によって船岡山の南に創建されたのが始まりです。かっては、平安時代の歌人・女流作家の紫式部の住居があった場所とされています。
本堂前庭は紫式部にあやかり「源氏庭」とよばれています。
本堂横の小道(墓参道)を行くと、慶光天皇御陵をはじめとする皇族の墓、「雲水ノ井」、豊臣秀吉が造営した御土居など見所があります。
「雲水(くもみず)ノ井跡」 紫式部が女房として仕えた藤原彰子が、法成寺内に建てた東北院にあった井戸とされます。紫式部が身だしなみを整える際に、この井戸水に顔を映したともいいますが、現在では枯れています。
「下御霊神社」の手洗舎 江戸時代の明和7年(1770)の干ばつの際、当時の神主が夢のお告げにより境内の一か所を掘らせたところ、清らかな水が沸き出て皆に汲ませることができたそうです。それは、「感応水」と名づけられました。
当時の井戸は現存しませんが、再堀された現在の井戸も同じ水脈と考えられ、美味しいと評判になり、水を汲みに来る人が絶えません。
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コメント
「神山湧水珈琲 煎」
湧水で淹れた珈琲は、美味しいでしょうね。
珈琲は好きで、今でも缶珈琲のブラックを飲んでいるぐらいなので、
気になります。
湧水のブルーマウンテンとかだと、絶対美味しい気がします。
投稿: munixyu | 2022年6月 7日 (火) 14:48
★munixyuさん こんばんは♪
お返事が滞り、すみませんでした。神山湧水珈琲は上賀茂神社でしか味わうことができないようです。注文を聞いてから豆を挽いているそうです。
投稿: りせ | 2022年6月15日 (水) 01:31