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2022年5月13日 (金)

松ヶ崎大黒天 新緑の境内

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事に続いて松ヶ崎大黒天を訪れました。北山通から一筋北に一の鳥居があります(上の写真)。左の山腹に五山送り火の「法」があり、その下まで行きます。

参道を進んでいくと道が三つに分かれます。左が松ヶ崎大黒天、右の鳥居の石段が白雲稲荷神社、中央が参拝者用駐車場に行く車参道です。左の松ヶ崎大黒天の参道を上ります。

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「松ヶ崎大黒天」は通称で、山号を松崎山、正式名称を「妙円寺」という日蓮宗の寺院です。「都七福神」の第一番(大黒天)でもあります。(参道の途中に新しいお堂「大黒殿」が建っています。)

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さらに「京の七福神」、「京都七福神」、「京洛七福神」にも含まれ、京都の七福神巡りの大黒天としては欠かせない札所です。(宗祖日蓮大聖人御生誕八百年記念事業として昨年竣工、大黒堂の大黒天の分身を祀っています。)

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鎌倉時代の永仁2年(1294)日蓮聖人の法孫、日像上人によってこの地に法華経が広められました。徳治元年(1306)には松ヶ崎全村が日蓮宗に改宗して「松ヶ崎法華」とまでいわれ、後世まで日蓮宗が盛んな土地でした。(最後の石段)

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江戸時代初めの元和2年(1616)本覚院日英上人が本涌寺(現在の涌泉寺)内に隠居所を建立したのが妙円寺の始まりです。 「山門」から。

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涌泉寺はこの寺の西、五山送り火の「妙」の字の山の麓にあります。(山門を入ると、弁財天、大黒天、水子観音などの奉納された石像が並んでいてます。)

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後の承応3年(1654)教蔵院日生上人によって「松ヶ崎檀林」(僧侶の学校)が、この近くに創建されました(手水鉢にも大黒天)。

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「大黒堂」は江戸時代後期の文化2年(1805)に建立され、大黒天像は伝教大師・最澄の作で日蓮聖人が開眼したとされます。日英上人が妙円寺を創建した際に、法華経の守護神として祀ったといわれています。(手前に「なで大黒天」があります。)

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お堂に祀られている大黒天は、都の表鬼門に位置して、寿福円満、開運招福、商売繁盛の神として信仰されてきました。昭和44年に堂宇が焼失しましたが、大黒天は水火を免れて無事だったので「火中出現の大黒天」として崇拝されています。

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60日に1回の甲子(きのえね)大祭は大黒天の縁日で、朝9時から夕方の5時まで諸願成就の祈祷が行われ、前夜の7時に大黒天が開帳されます。今年の残りの甲子大祭は、7月10日、9月8日と11月7日です。下は向かいにある「絵馬堂」。

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絵馬堂の中は休憩室になっているようで、市内の眺望ががあります。東南には横向きの大文字とその下に北白川ゴルフクラブ(練習場、現在は閉鎖)が見えます。

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大黒堂の隣が「本堂」で、本尊は大曼荼羅の久遠実成本師釈迦牟尼仏(くおんじつじょうのほんししゃかむにぶつ)です。右手前に宗祖大聖人(日蓮)の像があります。

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ところで、五山送り火はそれぞれが異なる起源をもっていて、「妙法」は松ヶ崎の法華信仰の歴史を伝えています。

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「妙法」は松ヶ崎大黒天の裏山の松ヶ崎山にあります。松ヶ崎村が日蓮宗に改宗したとき、日像上人が杖で松ヶ崎西山に「妙」の字を描き、村民(信徒)たちは周りの木を刈り松明を灯したとされます。

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後に下鴨大明寺(現在は廃寺)の日良上人が松ヶ崎東山に「法」の字を描き、これが「妙法」の送り火の起源だそうです。「西門」、右には、お茶席(控室)や庫裏などがありますが、近づけません。

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山門はちょっとした額縁門になっていて、大文字山が正面に見えます(木が茂ってきてはっきり見えません)。数年前の台風で傷んだ屋根の瓦がまだ修理されていないようです。

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山の方の道は、墓地の「妙法霊苑」の横を通って「法」の字の火床まで続いています。ただし、数年前から入山禁止となっていて、送り火の翌日だけ開放されるようです。

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帰りは山門をくぐらず、東の広い道を下ります。坂道の途中の「釈迦如来堂」には釈迦如来座像が祀られていますが、由来は分かりません。下には「白雲稲荷神社」の拝殿と大きなご神木、参拝者用駐車場があります。

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この神社の創建時期は不明ですが、平安時代前期の紀貫之(868頃-945)の歌「たなひかぬ 時こそなけれ 秋も又 松ヶ崎より 見ゆる白雲」とあるのがこの神社だそうです。拝殿は、再建時に京都御所の能楽殿を下賜され、移設したものといわれています。

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祭神として、稲荷尊、鬼子母神、牛の宮を祀っています。牛の宮は境内東南にあったものを後に合祀したといわれています。伝承によれば、ご神託より東松ヶ崎では、牛の飼育と井戸掘りとが禁じられていたといいます。

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そのため牛の宮を祀り、農作業には馬を使っていたそうです。大正3年(1914)までは、10月23日の祭礼に参道にあった馬場で競馬(くらべうま)が行われていました。

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さらに、伝承では松ヶ崎大黒天西門からの参道下に井戸があり、狐の子が落ちて死んだそうです。やがて稲荷の親狐が現れ、今後井戸を掘ってはならないといいます。(境内の東の山の斜面にも墓地から、まだ畑が残っています。)

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掘ると家に不幸が起き、代わりにこの井戸は涸らさないと告げたそうです。禁を破った家に不幸が訪れたことから、以後、大正2年(1913)に上水道が通じるまで、東松ヶ崎の住民はこの井戸だけを生活用水として利用していたそうです。

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東の墓地から、狸谷不動の駐車場あたりが見えます(上の写真)。松ヶ崎大黒天の西参道の石段下に「東松ヶ崎の生活用水井戸跡」があります。

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コメント

井戸掘り禁止は、珍しいですね。
狐の子は、なぜ井戸に落ちたのでしょう。
井戸掘り禁止の理由は、他にもあるのかもしれませんね。
なんとなくそんな気がします。

投稿: munixyu | 2022年5月13日 (金) 13:56

★munixyuさん こんばんは♪
確かに不思議な伝説ですね。でもそれ以降、本当に一つの井戸だけを利用してきたそうです。

投稿: りせ | 2022年5月19日 (木) 01:40

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