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2022年5月17日 (火)

深泥池村の神仏たち

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

深泥池(みぞろがいけ)から西に行くと「鞍馬街道」が北に分かれていきます。鞍馬街道は下鴨本町から大原に至る府道40号下鴨静原大原線のことで、昨日の東鞍馬街道に対して旧街道にあたります。

TOPの写真の中央の石標には「愛宕大明神」とあり、この辺りはかって愛宕郡深泥池村と呼ばれていました。鞍馬街道を少し北に行くと「深泥池地蔵堂」(右)があり、左は集会場の「深泥池会館」。

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室町時代になると鞍馬街道に関所が設けられ、人々は六地蔵の一つの深泥池地蔵に旅の安全を祈願しました。安土桃山時代から江戸時代にかけて、六地蔵巡りが盛んになり、深泥池地蔵はその霊場の一つとして人々に崇高されました。

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しかしながら、明治初年の神仏分離令後の廃仏毀釈によって 1869年深泥池地蔵は上賀茂神社の神領外に追放され、出雲路橋西の上善寺に遷され「鞍馬口地蔵」と呼ばれました(下の写真)。

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深泥池村は明治2年(1869)に火災に見舞われ、明治16年(1883)にも再び火災に遭いました。村民らは村の鎮守がないためと考え、地蔵堂の再建にめどがついた頃、

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明治28年(1895)に土木業者の西光組から十念寺(五条)経由で新たに地蔵菩薩が奉納されました。地蔵堂に安置された(2代目)深泥池地蔵は、以後人々の崇敬を集めてきました。

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地蔵堂から街道を北に行くと「深泥池貴舩神社」があります。この神社の創建や変遷の詳細は不明ですが、江戸時代前期の寛文年間(1660-1670)深泥池村の村民によって貴船神社から分霊され、当地に祀られたといわれています。

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「舩」は「船」と同じ意味ですが手書きに使われる略字で、本社をはばかったのではないかと思われます。貴船神社は平安遷都以来皇居の用水や人々の生活用水となる賀茂川の水源や木を司る神を祀り、人々の参詣が絶えませんでした。

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しかしながら、貴船神社の本宮への参拝は遠くて大変だったので、その分霊をこの地に祀ったと考えられています。

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祭神として高霹神(たかおかみのかみ)を祀り、農耕、住民の安寧、除災招福の信仰を集めています。

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最初の石段に戻り、その左に「秋葉神社」があります。このあたりの森はかって「七つ森」ともいわれ、一番森の「消し山」には平安時代から火伏せ神の秋葉神社が祀られていました。

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神仏混合の神社であったため、明治の廃仏毀釈の嵐の中で、賀茂社の社家によって秋葉神社は打ち壊されてしまいました。現在の社殿は平成4年(1992)に再建されたものです。

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社殿が壊された跡、火事で村は全焼してしまいました。焼け跡を整理していた人々は、焼けた漬物桶の中身が残っているのに気づきました。桶の中がいい匂いがしたので村の長が試食すると「酸い茎や」といいながらも美味しかったようです。

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それが「酸茎」(すぐき)の起源といわれます。すぐき(漬け)は代表的な乳酸発酵漬物で、柴漬け、千枚漬けとあわせて、京都の3大漬物といわれます。(本殿裏に「弁財天社」、左の石段の上に役行者が祀られています。)

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数年前、江戸時代中期の南画家・池大雅(1723-76)が深泥池村で生まれたという文書が発見され、2018年1月に生誕地を示し功績をたたえる記念碑が建立されました。

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大雅は、生まれ育った深泥池を忘れないために「池」の姓を名乗ったといわれています。一の鳥居の横の敷地も境内かも知れません。

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鞍馬街道から引き返し、交差点まで戻ります

 

ここから山沿いに西に向かいます。一昨日の記事で松ヶ崎を通ってきた府道103号上賀茂川端線(上賀茂本通)は北山通から鞍馬街道に合流して一筋南を西に向かっています。

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この山沿いの道は民家が多いのですが、綺麗な建物のヘアサロン「HAIR’S you&my」がありました。

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少し西に行くと山の方に向かう脇道があり、少し立ち寄ります。

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「勇身八満宮」 創建や由緒については不明ですが、よく手入れされています。八幡宮は大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社として全国に約44,000社あるそうです。

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八幡神は、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神として崇敬を集めて応神天皇と同一とされことが多く、神仏習合して八幡大菩薩とも呼ばれます。

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勇身は、『坂上田村麻呂伝記』で「勇身踰人」(いさましさが人を超える)と評した言葉だそうです。近くの鎮守社の「元服祭」のビラが貼ってあり、近所の方によって守り継がれてきたようです。

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元の道に戻った突き当りは古いお屋敷で、塀をくりぬいた祠に地蔵尊が祀られていました。

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少し西に行くと、先ほど紹介した上賀茂川端線(上賀茂本通)と合流します。このあたりまでの右手(山側)が旧深泥池村(現・上賀茂深泥池町です。

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「岡本口」 ここは岡本町で、この北に向かう脇道の先は市原方面に続く「大田の小径」です。実は、深泥池村の開発は江戸時代前期にこの地の社家・岡本家が手掛け、後にその作人が移住したといわれています。

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「岡本やすらい堂」 平安時代の833年、神戸百姓(かんべのひゃくせい)は、賀茂社の東一里に、神仏習合の岡本堂という仏教、修法を行なう道場を建立しました。堂は検非違使により破却されましたが、勅令により再建されたといいます。

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葵祭の日(5月15日)に行われる「上賀茂やすらい祭」は、平安時代末期に始まった鎮花祭で重要無形民俗文化財に指定されています。祭列はこのお堂を出発して大田神社、上賀茂神社に向かいます。「岡本口児童公園」

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コメント

愛らしい化粧地蔵ですね。

この辺りもゆっくり歩いてみたいところです。

投稿: もっちゃん | 2022年5月17日 (火) 10:29

★もっちゃんさん こんばんは♪
おそらく女性が化粧をしていると思いますが、河合神社の鏡絵馬のように、近所によく似た女性がいるかも知れません。

投稿: りせ | 2022年5月19日 (木) 02:41

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