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2022年4月24日 (日)

祇園白川 夜桜

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、花の回廊を三条から四条まで歩いた後、白川沿いの夜桜を見に行きました。川端通から「白川南通」に入ると右手に二つの祠があります。

右は「弁財天社」 鎌倉時代前期の1228年、治水担当・防鴨河師(ぼうかし)の勢多判官為兼は鴨川の洪水に悩まされていました。ひとりの僧が現れて進言した後、目疾(めやみ)地蔵(四条通の仲源寺)に消えたそうです。

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進言に従って、川北に弁財天社、川南に禹王廟(なつのうのちょう)を建立すると、洪水はおさまりました。禹王とは治水事業に功績があった中国・夏王朝の始祖です。左は「地蔵尊」。

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今日はお店の説明は省略して、このあたりの情景を詠んだ歌や俳句、それにまつわるエピソードを紹介します。料亭「京新山」

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川端四条からここまで来る途中の川端通脇に与謝野晶子・寛(鉄幹)の歌碑があります。晶子「四条橋 おしろい厚き舞姫の額 ささやかに打つ夕あられ」 大和大路通(縄手筋)を渡ります。

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寛「南座の 絵看板をは舞姫と 日暮れてみるも 京のならはし」 これらの歌は夫婦で京都を訪れたときのものです。

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一方、晶子のよく知られた「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」は、鉄幹が妻子持ちだったときに、思いを寄せた歌といわれ、晶子のときめく心が伝わってきます。

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素性法師「血の涙 おちてぞたぎつ白川は 君が世までの名にこそ有けれ」親しかった藤原良房の死を悲しんで詠んだ歌ですが、血の涙と白川の色彩を対比させたことが秀逸といわれています。

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西行「白河の 梢を見てぞなぐさむる 吉野の山にかよふ心を」 西行にとって白河の桜は、最も懐かしい吉野の桜を思い出させる存在だったようです。

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和歌ではありませんが、演歌歌手・葵かを里さんの「京都白川 おんな川」は、 「あなたの姿が 遠ざかる 見送る八坂神社の 石畳」で始まり、「袂にしまった 思い出を 揺らす未練の 川柳」、

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「きっとあなたが 困るから 追って行けない 巽橋」、「日暮れて華やぐ 町灯り 隠してください 涙顔」と続き、最後は「幸せでした あなたに逢えて 京都白川 おんな川」で終わります。

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向うの枝垂桜のところに吉井勇の歌碑があり、そこは、かってお茶屋の「大友」があった場所です。大友の女将「磯田多佳」は6歳で井上八千代に入門。そこで芸を磨き、10代で祇園甲部の芸妓となりました。

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一度嫁ぐも家に戻り、23歳で母の家業を継ぎました、一方で、志賀直哉、高浜虚子、浅井忠、横山大観、尾崎紅葉、夏目漱石、谷崎潤一郎、吉井勇などの文学者と交流した歌人でもあり「文学芸妓」と呼ばれました。

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吉井勇「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」 かって白河沿いにはお茶屋が並んでいて、大友は有名作家や画家が集まるサロンのようになっていました。

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そのことが、祇園の格式や名声を高めたといわれています。夏目漱石との交流は、大正4年に胃痛の療養の為に京都を訪れた際、漱石のファンであった多佳が木屋町の旅館を訪れて漱石の身の回りの世話をしたことに始まります。

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漱石の俳句「春の川を 隔てて男女哉」には、「木屋町に宿をとりて、川向の御多佳さんへ」とのただし書きがあります。漱石は1か月京都に滞在し、3月20日夕食に磯田多佳を呼んで11時まで話し込みました。

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漱石は楽しかったらしく、翌日も高級料理を注文して多佳を呼び出しました。更に翌々日には北野天満宮の梅を見にいく約束をしたつもりでいました。「巽橋」

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ところが、漱石が電話をかけると多佳は他のお客と前日から遠出をしていました。漱石はフラれたような気分になって、ちょっとすねたのが上の句です。

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漱石は、その日一人で人力車に乗って京都帝室博物館(京都国立博物館)や伏見稲荷まで行きましたが、帰りに食べた洋食で腹をこわしてしまいます。東京へ帰ると駄々をこねましたが、多佳がとりなして鏡子夫人を電報で呼んでひと騒ぎありました。

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結局、漱石はしばらく夫人と京都で静養することになりました。当時の多佳には愛人がいたようです。平成28年(2016)のテレビドラマ『漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間』では、宮沢りえが多佳を演じました。

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白河沿いに並んでいたお茶屋は第二次世界大戦の戦局の悪化とともに撤去されてしまいました。昭和20年(1945)5月多佳は終戦を知らず亡くなり、ねねの道にある大雲院に葬られました。

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翌年、大雲院で新村出、川田順、谷崎潤一郎らの茶会・座談会があり、そのときの話題は磯田多佳で、高谷伸が岡本橘仙と多佳との恋文の使い番をさせられた話や大友の客の想い出話などだったそうです。

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座談会の後、潤一郎は「多佳女おぼえがき」で吉井勇の歌は「かにかくに祇園はうれし酔ひざめの、枕の下を水の流るる」が本歌で、そうなると意味が違って来ると指摘したそうです。「辰巳神社」

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こちらは一筋北の新橋通で、両側に旅館や料亭・レストランが並んでいて風情のある通りです。

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コメント

≪…「春の川を隔てて 男女哉 漱石」…≫の句碑に山口昌哉氏が関わている。山口昌哉氏は、【カオス】の研究者なので数の言葉ヒフミヨ(1234)を十進法の基における西洋数学の成果の符号(e i π ∞)の数学からの送りモノとしてカオスな【1】【0】の役割をチョット数学共同体からパラダイムシフトして眺めたい。
 漱石の「草枕」は、文学的な眺めからの数学の教科書だ。
句碑の本句取りから、
  銭(数)の川を 隔てて 膠鏘音 
        (がま口の 閉じ開けごとに 膠鏘(きゅうそう)音)

 月日をそろばん(4、1)のパチパチ(8,8)から漱石忌(12,9)へ
  8,8と隔て弾き漱石忌

 8月8日は、そろばんの日でがま口の日・・・
      ヒフミヨの日も潜ませたい。

数の言葉ヒフミヨ(1234)の風景は、3冊の絵本で・・・
 絵本「哲学してみる」
 絵本「わのくにのひふみよ」
 絵本「もろはのつるぎ」

投稿: 〇△▢乃庭 | 2022年11月29日 (火) 15:45

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