島原 遊郭から花街へ
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
先日、花屋町通を西に歩いて①島原の「大門」(京都市指定文化財)まで来ました。ここから先の「島原」は寛永18年(1641)京都所司代の命令で「六条三筋町」にあった傾城町をこの地に移されたのが始まりです。
正式名は西新屋敷ですが、移転騒動があたかも島原の乱のようであったからこの名がついたともいわれています。新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門ができました。
島原には中央の花屋町通の両側に6つの町、上之町、中之町、太夫町、中堂寺町、揚屋町、下之町があり、それぞれの中央にも南北の通りがあります。
江戸の吉原とは異なり、島原は開設当初から遊郭と(現在でいう)花街が混在する街でした。 さらに、立地条件や格式の高さから島原の遊郭は江戸時代の中期には急速に衰退しました。ゲストハウスの「京桜ハウス 島原店」
それでも京都で唯一の公認遊廓として、清水、祇園、八坂、北野門前町などの茶屋町から「株料」を徴収したり、娼妓(遊女)を派遣するという形で権益を守ってきたといわれます。「上之町」
遊廓では、自ら娼妓を抱えて営業を行う「居稼ぎ制」をとります。吉原では幼少期に売られ、契約は16、17歳より10年間拘束されるのが通常でした。「湯の宿松栄」露天風呂・檜風呂もあり市内の旅館で唯一の浴場施設。修学旅行生は受け入れていません。
一方、花街としては、宴席の揚屋(お茶屋)と、太夫や芸妓を抱える置屋とに分かれる営業形態をとり、これを「送り込み制」と呼ぶそうです。「中之町」
左手にあるのは②「輪違屋(わちがいや)」(京都市指定文化財)、島原で唯一の営業を続けているお茶屋です。お茶屋は料理を作り、お客に遊宴をしていただき、現在の料亭や料理屋にあたります。
置屋も兼ねている輪違屋には現在5名の太夫が所属して、いくつかの寺社で行われる行事で道中を披露し、舞を奉納しています。「こったい」とも呼ばれ、優れた技能、教養を持つ最高位の芸妓です。
その後西口ができて通り抜けができるようになり、劇場が開設され一般女性も入ることができました。天保13年(1842)以降は土塀や堀もなくなり、誰でも出入りができました。「メゾン島原」、築1988年、3階建、12戸、1K、1DKのマンション。
吉原と島原の違いを表しているのが火事だといわれています。吉原では閉じ込められた遊女が逃げ出すための放火が多く、新吉原時代(1676-1866)に21回、明治期には7回もの大火が発生しています。
「法華寺」 山号を成就山という日蓮宗の寺院で、東寺内に建立された塔頭・法華堂が前身。昭和38年(1963)新幹線の建設に伴い東寺北門から現在地に移転。境内の妙見堂は洛陽十二支妙見めぐりの「未」の方となっています。
一方、島原では360年間に放火による火事は皆無で、嘉永7年(1854)にわずか一回失火によって島原の東半分が焼失しただけでした。(最後の写真は法華寺の本堂横です。)
さらに通りを行くと③「歌舞練場跡」があり、現在京都市の老人福祉施設になっています。「島原歌舞練場」は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されました。不景気などにより一時中断しましたが、
その後太夫道中が再興されて巡行の拠点となり、昭和2年(1927)この地に本格的な劇場施設として新歌舞練場が新設され、歌舞音曲の練習発表の場にもなりました。
ここでは、歌人・吉井勇が「宝暦の むかしの夢は 見は見つれ 夜半の投節 聴くよしもなし」、宝暦から寛政期(1751-1800)に島原俳壇が形成され、「投節(なげぶし)」は江戸時代初期に流行した遊里流行歌謡で、島原の遊女河内が創始したといわれます。
中央の花屋町通に戻り、「ビラパークサイド」、築1993年、5階建、40戸、1Kのマンションです。
「誠の湯」 旅館・松栄と繋がっていて、宿泊者は無料で利用ができるそうです。「溶岩の湯」と「木の湯」は日替わりで男湯と女湯が入れ替わり、上階に露天風呂があり、館内には新撰組関連の展示もあります。スーパー銭湯と銘打っています。
「ギャラリー たんとん」 島原の文化・芸術を引き継いで、様々な作家の作品展を開催しています。カフェを併設して、オシャレな小物の展示・販売もあります。
「中堂寺町」に入り、「円亭(まどかてい)」 隠れ家的な鍋料理のお店で、高級食材とされるすっぽんを、食べやすくお手頃価格で提供。季節限定で京都の夏の風物詩「鱧」や「河豚」も楽しめます。テイクアウト・通販も。
「島原温泉」(旧千鳥湯) 昔ながらの銭湯で、岩風呂にラジウム鉱石をいれたラジウム温泉や赤外線サウナもあります。
「太夫町」 先ほどの上之町にあった「松栄」の建物が見えます。
「Rinn Shimabara (鈴 島原)」 洋室9、和洋室13のホテルで、洋室はダブル6室、ツイン3室です。花屋町通より一筋南の「正面通」との交差点にあります。
④「きんせ旅館」 花屋町通との交差点南西にあり、元揚屋の建物を利用して、京都市の歴史的風致形成建造物。1階はカフェ・バー、2階は1日1組限定の宿になっています。
Googleストリートビューの1階の写真です。この後、島原西部の角屋や点在する歌碑や史跡を見て回ります。
お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
★こちらを是非よろしく→ ブログ村→
-------------------------------------------------------------------
| 固定リンク
コメント
どの世界も、火は怖いですよね。
特に放火は、どうしようもなかったでしょうね。
島原は、放火がなかったのは、何故でしょうか。
不思議ですよね。
投稿: munixyu | 2022年3月24日 (木) 16:04
★munixyuさん こんにちは♪
吉原で遊女による放火が多発したのは、過酷な環境に置かれていたからです。火付けの刑罰は火あぶりと決まっていいたのですが、吉原の遊女の場合、幕府も状況を知っていたようで島流しですんだそうです。八丈島や三宅島が多かったそうですが、遊郭よりもそちらの方を選んだということでしょう。
投稿: りせ | 2022年3月24日 (木) 22:17