東寺 西門から南大門へ
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御前通から東寺の西門に来ました。先日は時間がなくて行けなかった境内の南西部を巡ります。上の西門を入ると御影堂(大師堂)がある西院で、その南にある毘沙門堂の門をくぐって境内に出ます。
先日は右の塀にそって灌頂院から本坊へ下堂する後七日御修法の列を見学しました。この日の前日(1月21日)は2年ぶりに初弘法が開かれてこのあたりは賑わったそうです。
「本坊」 小子坊(こしぼう)、書院、客殿、事務所と庫裏などがあります。東寺は真言宗(東寺派)総本山で、その宗務本庁を兼ねているので、寺務所ではなく「事務所」と呼んでいるのだと思われます。
正面は玄関、右は庫裏、最後に玄関のクローズアップがあります。門から中には入れません。
玄関の横に「浩宮徳仁親王殿下東寺行啓記念樹」 現天皇が親王のとき(昭和64年1月7日に皇太子になられる以前)に東寺を訪問されたようです。
「勅使門」 門の向う側(西)に蓮華門(国宝)があります。背後の建物「小子坊」は天皇を迎える場所で、南北朝時代に足利尊氏が光厳上皇を奉じて都に入ったとき、戦いが治まるまで御所となりました。
現在の小子房は、昭和9年(1934)弘法大師空海の千百年御遠忌にあたり再建されました。総木曾檜造で、昭和を代表する建築物のひとつとされ、襖絵や壁画は堂本印象、庭園の「澄心苑」は七代目小川治兵衛の作です。
工事中の建物は本坊のようです。
向うにあるのは「灌頂院」(重文) 平安時代の843年、弘法大師が修行した唐の青竜寺にならい、密教修行の道場(灌頂道場)として建立。鎌倉時代に修復、1585年の伏見大地震により損壊、江戸時代の1634年に徳川家光により改築されました。
真言宗寺院で最も重要な堂舎で、正堂と礼堂からなる双堂形式です。正堂内部には胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅が掲げられ、壁に金剛薩埵(さった)菩薩や大日如来などの種字があります。
上の写真の北門、下の東門はともに重要文化財、灌頂院は通常非公開です。東門の前に鎮守社があります。
「鎮守八幡宮」 東寺の創建時に王城鎮護を願って祀った社で、僧形八幡神と二尊の女神は、空海が自ら彫ったものと伝えられて、わが国最古の神像です。
戦勝祈願の社として名高く、平安時代の薬子(くすこ)の変では、鎮守八幡宮から神矢が飛んで、東寺に陣を置いた足利尊氏が新田義貞に勝利したと伝わっています。毎月21日に護摩供が行われ、前に護摩木が置いてありました。
現在の社殿は、平成4年(1992)に建立され 入母屋造、銅板葺、左が本殿、右が拝殿です。
南大門の横に「弘法大師像」、金堂・講堂の方を向いています。
東の方に鳥居があるのが「八島社」 東寺の創建以前よりこの地に祀られていた地主神で、その名は大八洲瑞穂国(おおやしまみずほのくに)に由来するとされます。大八洲瑞穂国は日本の古い呼び名です。
弘法大師はこの神の夢想を破ってこの地に伽藍建立をするに先立ち、この神への寺門造立成就、方位安全、法道繁盛の祈願を行い、地主神としてあがめたと伝えられています。
金堂の前に「中門跡」を示す大きな石灯籠があったのですが、撤去されたようです。ところで、今日はブログ開設から16年目にあたります。その間の全記事は左のサイドバーの「バックナンバー」にあります。
「南大門」(重文)は蓮華王院(三十三間堂)の西門を移築したもので、安土桃山時代の慶長年間(1596-1615)の建立、国内最大の八脚門です。この後、最近発掘調査の報告書が発表された西寺跡を目指して九条通を歩きました。
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コメント
ブログ開設16年目、
おめでとうございます。
凄い年月ですね。毎日更新お疲れ様です。
京都を間近に感じて、嬉しいです。
投稿: munixyu | 2022年1月27日 (木) 15:42