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2021年12月 3日 (金)

来迎院と良忍上人

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

三千院を出て、石段下から呂川に沿って来迎院に向かいます。下の写真の右は「一福茶屋」、左には「重要文化財 三重石塔 融通念佛宗宗祖 聖應大師良忍上人御廟」という石標があります。

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しばらく坂道を上ると、三千院・往生極楽院のかっての正門「朱雀門」があります。

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呂川の橋を渡ったところに、来迎院の子院「蓮成院」があります(非公開)。

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来迎院の塔頭「淨蓮華院(じょうれんげいん)」、精進料理がおいしいと評判の宿坊があり、飲酒も可能だとか。コンサートなど様々なイベントも行われます。

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呂川沿いの道の正面に来迎院の参道入口があります。小さく看板が見えるところに来迎院の山門の石段があります。

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「来迎院」は、山号を魚山という天台宗総本山・延暦寺の別院です。平安時代の仁寿年間(851~854)に、天台宗を開宗した伝教大師最澄の直弟子・慈覚大師円仁が、この地に声明(しょうみょう)の修練道場を創建しました。

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円仁は唐に留学したとき、五台山の太原(たいげん)を中心に盛んに行われていた五台山念佛(声明)を比叡山に伝え、中国の太原にちなんでこの大原の地を声明の根本道場としました。(山門を入った正面は「会館」で参拝受付があります。)

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藤原時代(平安時代中・後期)、大原は俗化した比叡山を離れた僧が修行する隠棲の里となり、寂源が勝林院を、叡山東堂の堂衆であった良忍が来迎院を建立するなど多くの僧坊が営まれました。(本堂は右手の石段の上の高台にあります。)

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良忍上人(1073-1132)は念仏三昧の一方で、来迎院と浄蓮華院を創建し、分裂していた天台声明の統一をはかり、大原(魚山)声明を完成させました。(梵鐘は室町時代の永享7年(1435)藤原国次作で京都市指定重要文化財です。)

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本堂は室町時代中期に火災により焼失 室町時代後期の天文2年(1533)に再建されたものです。本堂には、藤原時代の薬師・阿弥陀・釈迦の三尊像(重文)を安置しています。過去には撮影可能でしたが、現在は撮影禁止になっています。

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下は、3年前の11月に訪れたときにご住職に見せていただいた本の写真です。左の不動明王像と右の毘沙門天像はともに藤原時代後期の作で、天井に極楽浄土に舞う天女が描かれています。

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中央が薬師如来、右が阿弥陀如来、左が釈迦如来です。薬師如来は耳の病気にご利益があるとされ、耳の病気の快癒を願う絵馬がたくさん奉納されています。 上の写真で左の不動明王が見えませんが絵馬に描かれています(最後の写真)。   

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このときは紅葉の境内ですが、本堂の前にはツツジが植えられ、正面には呂川に面した門があります。

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本堂の右手前の小高いところにお堂があります。

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中央には「鎮守堂」、

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左に「地蔵堂」があります。これらは鎌倉時代の建立とみられています。右には五輪塔があるのですが、由来が分からなかったので今まで写真を載せていませんでした。

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「五輪塔」 鎌倉時代中期のものと見られ、大原念仏寺の弘安9年(1286)銘の五輪塔より火輪などが異なる型式を持つことから、おそらく大原念仏寺五輪塔よりもやや古い時代の造立と推定されるそうです。

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この石塔の方が開山の良忍の墓ではないかという説があります。なお、五輪塔は密教で説く五大(万物の構成要素)を象徴して、下から方(地輪)、円(水輪)、三角(火輪)、半円(風輪)、宝珠(空輪)を積み上げたものです。

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良忍上人が大原に隠棲して来迎院を開いたのは23歳のときです。その後46歳のとき(1117年)阿弥陀仏のお告げによって、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあう「融通念仏」を創始しました。(本堂の右から良忍上人の墓参道があります。)

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後の世を待たずに、現世にだれもが速やかに智慧が輝き喜び溢れる幸せの世界に至ることができる、融通念仏の法門を授与されたといいます(律川を渡ります)。

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融通念仏を開いたとはいえ、いまだ民衆に広めることなく草庵に閑居していました。しかし、ある時鞍馬寺の多聞天王が姿を現し「尊い融通念仏を授かったのに、どうしてそれを人びとに勧めて救済しないのか」と告げられたといいます。

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この言葉に励まされ、良忍上人は天治元年(1124)はじめて市中に出て念仏の勧進を始めました。やがて上人の名は朝廷にも達し、鳥羽上皇は宮中に招いて皇后や官人らと融通念仏会を修して、自ら日課として念仏を唱えました。

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鳥羽上皇は自ら製作した融通念仏勧進帳の最初に自分の名を書き、序文をしたためました。さらに、勅願により河内に日本初の念仏道場を開き、後に融通念佛宗の総本山の大念佛寺となりました。良忍上人は来迎院で亡くなりこの「層塔」が墓とされます。

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先ほどの五輪塔が良忍上人の墓であるという説では、上の層塔は鎌倉中期でも良忍が没してから数十年後の造立で、供養塔ではないかと見ています。山門まで戻る途中に新しく建てられた収蔵庫の「如来蔵」があります。

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良忍上人が呂川の上流にある滝の前で声明の修行をしていると、声明と同調してついに滝の音が消えたという伝説があります。その滝は「音無の滝」と呼ばれ、来迎院から歩いて15分くらいの場所です。

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ところで、来迎院の寺宝『伝教大師度縁案並僧綱牒』は最澄(伝教大師)の得度や受戒に関わる文書類3点を一巻としたもので、最澄の伝記資料としてきわめて貴重なもので国宝に指定されています(東京国立博物館に寄託)。

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宝亀11年(780)近江国府牒案、延暦2年(783)最澄度縁案(どえんあん)、延暦4年(785)僧綱牒の3通の文書からなり、最澄の得度、出家、受戒をそれぞれ関係部署が許認可した文書の案文と正文です。

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最澄の俗名(三津首広野)や出身地(近江国滋賀郡古市郷)、最澄のほくろの場所などの身体的特徴、正文の僧綱牒には「僧綱之印」が捺されていて、これらが来迎院に伝わってきたことは奇跡ともいえます。

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コメント

薬師如来は耳の病気にご利益があるのですね。
こないだから、中耳炎になったり治ったりの繰り返しで、
耳の聞こえが悪くなって困ったもんです。
薬師如来に助けて欲しいものです。

投稿: munixyu | 2021年12月 3日 (金) 15:34

★munixyuさん こんばんは♪
原因が中耳炎ならお医者さんを頼る方がよいですよ。来迎院の薬師如来は原因不明の耳の病気の方がお願いに来ます。

投稿: りせ | 2021年12月 7日 (火) 01:55

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