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2021年11月 2日 (火)

仁和寺 秋の御殿と庭園を巡る

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※写真は全てクリックで拡大します。

等持院界わいを訪れた後、仁和寺に来ました。今日は、はからずも仁和寺を創建する立場に至った宇多天皇を振り返りながら、御殿と庭園を拝観します。

「仁和寺」は山号を大内山という真言宗御室派総本山です。仁和2年(886)に光孝天皇の勅願により建立を始めますが翌年に光孝天皇は崩御、遺志を継いだ宇多天皇によって仁和4年(888)に完成、元号が寺名となりました。

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「二王門」(重文) 同時期に建立された知恩院と南禅寺の三門の禅宗様式に対し、平安時代の伝統を引き継ぐ和様で統一されています。正面の左右に阿吽の二王像(金剛力士像)。

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宇多天皇は譲位後の昌泰2年(899)落髪入寺し、寺内に御室(御座所)を設け、御室御所とも呼ばれました。以後、明治維新まで代々皇子皇孫が門跡となり、最初の門跡寺院でその筆頭でもありました。

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また、代々の門跡が宇多天皇を流祖とする華道の家元を務めてきました。 二王門の左にある「本坊表門」(重文)、看板に隠れていますが、右の石標には「御室流華道総司庁」とあります。

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ところで、光孝天皇の第7皇子の宇多天皇が即位して、その遺志を継いだのには複雑な事情がありました。(主要な建物は本坊から渡廊で結ばれていて、最初に左にある白書院に行きます。 向うは宸殿。)

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光孝天皇は、先代の陽成天皇が不祥事によって退位させられたことから、自身の後は陽成の嫡流が皇位を継ぐと考えていました。(「南庭」 広い砂地一面に平行な文様が描かれ、周辺に松や杉を配した簡潔な庭です。正面は勅使門。)

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そのため、26人の皇子皇女に源姓を賜り臣籍降下させ、皇太子を立てることのないまま、即位から3年後の仁和3年(887)に重態に陥りました。(左には「宸殿」が見えます。)

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ところが、政治の実権を握っていた関白・藤原基経は、天皇の内意が陽成の嫡流の貞保親王ではなく源定省(宇多天皇)にあるとしました。白書院の襖絵は昭和12年(1937)の福永晴帆による松の絵です。

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貞保は基経の甥でしたが、その母藤原高とは同母兄妹ながら不仲だったことが理由とされます。一方、定省は基経と仲の良い異母妹藤原淑子の猶子(養子)で、後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともありました。建物の間に端正な坪庭があります。

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「宸殿」は、儀式や式典に使用される御殿の中心建物で、寛永年間に御所から下賜された常御殿でした。しかし、明治20年(1887)に焼失、現在の建物は大正3年(1914)の再建です。宸殿の外縁を回ります。

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宇多天皇は即位後間もなく、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送りました。しかし左大弁橘広相の起草した「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまいました。

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北池の向こうに五重塔があり、その手前に「飛濤亭(ひとうてい、重文)」があります。光格天皇遺愛の席と伝えられる茶室で、内部は四畳半に台目がついた茶室と水屋の間、勝手の間で構成され、入口は躙口のかわりに貴人口が設けられています。

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翌年6月になって宇多天皇はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得ませんでした。勅願寺として仁和寺を建立したのはこの事件の最中でした。「北庭」は南庭は斜面を利用した滝組に池泉を配した池泉式の雅な庭園です。

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庭の制作年は不明ですが、元禄3年(1690)には加来道意ら、明治から大正期には七代目小川治兵衛によって整備され現在に至ります。大きなパノラマ写真で、クリックすると北庭の全景が見られます。

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下段の間で今年の10月22、23日将棋・竜王戦7番勝負の第2局が行われました。豊島将之竜王に藤井聡太三冠が挑戦し、後手の藤井三冠が70手で豊島竜王を破り開幕2連勝を飾った一局でした。

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寛平3年(891年)に基経が死去した後、宇多天皇はようやく親政を開始することができました。宸殿の襖絵は御所御用絵師・原在泉(1849-1916)の1913年の作で。四季折々の情景が描かれています。

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渡廊の途中から「霊明殿」が正面に見えます。仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊を安置するために明治44年(1911)に亀岡末吉の設計で建立されました。正面上に近衛文麿筆の扁額が掲げられています。

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渡廊の西の木の間に「遼廓亭(りょかくてい)」(重文)が見えます。仁和寺門前堅町より移築され、二畳半台目の茶室、四畳半の水屋と広間、控えの間・勝手の間、躙口で構成されています。

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宇多天皇は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢しました。 霊明殿から、左が宸殿、中央が白書院、右が後で訪れる黒書院。

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この期間に遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われ、文化面では寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、多くの歌人を生み出す契機となるました。北庭が一望できます。

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霊明殿は内部の正面に須弥壇を置き、平安後期作の薬師如来坐像(国宝)を安置しています。秘仏なので、御前立(レプリカ)が置かれています。一緒に上ってきたお坊さんが読経をしていました。

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霊明殿の裏の斜面に鎮守社と思われる祠があります。

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先ほどのお坊さんは末寺からいらっしゃったようで、沢山のお土産?を持っていました。向いの黒書院に入ります。

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友禅画家のあだち幸さん(77)が描いた不動明王の掛け軸4本が今年6月に奉納され、黒書院の角の部屋に展示されています。多彩な赤を背景に、憤怒の表情を浮かべる不動明王と、象や鳥などが描かれています。

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「黒書院」は花園にあった旧安井門跡の寝殿を移し、明治42年(1909)安田時秀の設計で改造したものです。昭和12年(1937)に堂本印象(1891‐1975)が描いた襖絵が室内を飾り、画題がそのまま6室の名称となっています。

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向かいの「大内の間」では、10月25日~12月5日の期間、「戊辰戦争カラー絵巻と純仁法親王展」が行われています。仁和寺所蔵の「戊辰戦争絵巻」を超高精細スキャン、デジタル彩色したものです。

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