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2021年10月 3日 (日)

聖護院と伝説の修験者・役行者

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

聖護院は10月1日から12月5日までの期間、特別公開をしています(休止日10月7〜10日、11月29日)。今日は過去の特別公開の記事を再編集して、伝説の修験者・役行者(えんのぎょうじゃ)からの聖護院の歴史を紹介します。

「山門」 江戸時代前期の延宝3年(1675)の大火で全焼した聖護院は、創建当初の旧地に伽藍を再建。山門はこの時の建築で、300年以上を経て平成12年に修理されました。

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山門を入った正面にある「長屋門」 門と居住スペースが一体化した建物が長屋門ですが、山門の中に建てられているため門としての役割はなく、土間、納戸として使用されてきました。この向こうに料理旅館の「聖護院 御殿荘」があります。

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「聖護院門跡」は本山修験宗の総本山で、皇室とゆかりが深く、圓満院、実相院とともに寺門派(三井寺)三門跡の一つに数えられています。最初に、通常公開されている宸殿前庭を見に行きます。

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役行者は修験道の開祖とされ、舒明天皇6年(634)大和国(奈良)に生まれ、父は出雲から入り婿した大角(おおづぬ)、母は白専女(しらとうめ)あるいは刀自女(とらめ)とされます。正面が不動堂、左が宸殿。

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「宸殿」法親王が居住する門跡寺院の正殿で、大玄関、孔雀、太公望、波の間など、内部の部屋は15を超え、狩野永納、益信筆による障壁画が130面あります。書院作りの影響を強く受けていますが、寝殿造りの形式も残し、宮殿風に造られています。

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16歳の時に山背国に志明院(先日記事にした雲ケ畑の寺)を創建、翌年17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学びました。(宸殿には鎌倉、室町、江戸時代作の三体の不動明王、孔雀明王、蔵王権現、三宝荒神、役行者の像を祀っています。)

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その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得して修験道の基礎を築きました。 十三重塔の横に「役行者像」があります。

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20代の頃に藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えました。大化の改新の後、仏教中心の国造りが行われている頃です。(庭のあちこちに小さな動物の焼物が置かれています。)

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高弟に国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官・典薬頭に任ぜられた韓国広足(からくにのひろたり)がいます。(2月3日と6月7日の「採燈大護摩供」で、この石は採燈(門主)が座り護摩の力を授かるパワースポットだそうです。)

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「本堂(不動堂)」役行者と前鬼後鬼・大峰八大童子を祀ります。江戸時代の本堂とほぼ同様の外観に、昭和43年に建替えられました。主な法要は宸殿で行われ、本堂は加行道場としての役割を持っています。

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役行者は富士山や九州の山々で苦行し、鬼神を操るほどの法力を得て前鬼、後鬼を従えたとされます。大峰八大童子は金剛蔵王大権現の眷属(部下)です。「授与所」聖護院は、近畿三十六不動尊第188番霊場、神仏霊場会112番です。

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数多くの呪術的な伝承が残されていますが、文武天皇3年(699)人々を言葉で惑わしていると讒言されて伊豆島に流罪となりました。(もう一度山門まで戻ります。特別公開は下の「大玄関」から入ります。)

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2年後の大宝元年(701)1月に大赦があり、故郷の茅原に帰るも同年6月に箕面山瀧安寺の奥の院・天上ヶ岳にて入寂。享年68。山頂には廟が建てられています。(宸殿の広縁から眺めた庭、先ほどの十三重塔が見えます。)

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天台の第5代座主、智證大師円珍(814-91)は 熊野那智の滝に一千日篭居をした後、熊野より大峰修行を行いました。その後大師の後を継ぎ、常光院の増誉(ぞうよ)大僧正が大峰修行を行い、 修験僧として名をはせました。

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平安時代後期の1090年、白河上皇が熊野三社を参拝したときに、園城寺の住持となった増誉が先達を務めました。その功に対して、増誉は修験道を統括する初代・熊野三山検校職に任ぜられました。

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修験道統括、法務のために、増誉を開基として現在地に聖護院が創建されたといわれています。増誉大僧正は本山派修験の管領として全国の修験者の統括を命じられ、最盛期には全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となりました。

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この後上皇によって行われた熊野御幸の案内は代々聖護院大先達が勤め、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれるほど、熊野詣が盛んになり、また愛宕山も修験の行場として栄えました。本堂への廻廊

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後白河天皇(1156-58)の皇子、静恵法親王が宮門跡として入寺した後、 明治維新まで37代門主のうち、25代は皇室から、12代は摂家から入寺し、皇室と関係の深い寺院となりました。(本堂、宸殿、書院で囲まれた苔庭)

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聖護院は室町時代の応仁の乱で焼失して洛北岩倉へ移りましたが、再び火災に遭ってしまいます。その後、市内烏丸今出川に建てられた伽藍も延宝の大火で延焼、延宝4年(1676)に旧地(現在地)に戻りました。

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江戸時代後期の天明8年(1788)の大火により御所が焼失し、聖護院は光格天皇の仮御所として3年間使われました。寛政11年(1799)には、聖護院宮盈仁法親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上奏。

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光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして「神変(じんべん)大菩薩」の諡を贈りました。 勅書は全文、光格天皇の真筆で、聖護院に寺宝として残されています。

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さらに幕末の嘉永7年(1854)にも御所の大火の際に、孝明天皇、皇子祐宮(後の明治天皇)の仮御所となり、孝明天皇妹の和宮も仮住まいしました。

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「書院」延宝4年(1676)に聖護院が現在地へ移転したとき、御所の建物が移築されたと伝えられます。二之間に大床があるのは門跡寺院に多く、御所には稀とされます。

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明治初年(1868)の神仏分離令に続き、明治4年には江戸幕府が定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)の門跡号が廃止されました。さらに、翌年には修験道廃止令が発布され、天台寺門宗に所属することになり、明治8年には末寺30寺が廃されました。

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戦後の昭和21年(1946)天台寺門宗から末寺とともに独立して修験宗を設立しました。さらに、昭和37年(1962)末寺とともに修験宗から独立して本山修験宗となりました。

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現在の建物は、役行者1300年御遠忌を記念して 全国の教信徒の協力を得て数年をかけて修理を行い、平成12年に完成したものだそうです。(宸殿と書院の間に坪庭があります。)

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幕末の文久2年(1862)金戒光明寺に京都守護職の本陣が設置され、聖護院門跡に練兵場を作り洋式兵法の訓練が行われました。(ここにも置物がありました。)

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「京都守護職 新選組巡礼会」の壬生寺、聖護院門跡、金戒光明寺は、9月26日から第一弾朱印巡りを行い、御朱印専用台紙(1862冊限定)が授与されます。

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