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2021年10月15日 (金)

下御霊神社と神輿庫の修繕事業

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

革堂を後に、その北にある下御霊神社を訪れました。「下御霊神社」は古くから御所の鎮守としで鎮座、皇室との関わり深い神社です。上下の写真の正門は仮御所の建礼門を移築したものです。

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平安時代は華やかな貴族文化が栄えた一方で、災害や疫病が繰り返し起こった不安な時代でもありました。人々はその原因が貴人の怨霊がもたらすものと考えました。怨霊となった貴人とは、政治抗争の中で冤罪を被り非業の死を遂げた人々です。「拝殿」

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その怨霊を、御霊(ごりょう)として祀り慰めることにより、災禍から守っていただこうと御霊会(ごりょうえ)が行われました。863年5月20日神泉苑で最初の御霊会が行われ、六つの霊前に花果を供え、高僧が読経し、新作の歌舞音曲を舞いました。

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神泉苑御霊会の祭神を、出雲路の地に祀ったのが御霊神社、その南に祀ったのが下御霊神社です。その後2度移転した後、天正18年(1590)豊臣秀吉の寺社整理に伴い現在地へ。上と下は祭神を守る随身像で、左大臣(年配の方)、右大臣ともいわれます。

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そのとき御霊として祀られのは崇道天皇(早良親王)、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原夫人(伊予親王母)、橘逸勢(はやなり)、室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)で、後に藤原広嗣が加えられて六所御霊と総称されました。

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さらに吉備真備、火雷神(火雷天神)が加わり八所御霊となりました。本殿は寛政期に仮皇居の内侍所(賢所)を移築したものです。民間信仰の高まりとともに、境内には多くの摂末社が祀られていますが、今日は省略します。

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本殿の右手(境内の南東)にある「神輿庫」はこの神社で最古の建物です。その建造以来2度の大火にもかかわらず神輿を守ってきましたが、建物の老朽化がひどくなってきました。扉には菊の御紋。

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宝永5年(1708) 宝永の大火により禁裏御所、公卿邸宅、武家屋敷、寺社及び民家約1万軒以上が焼失。当社も全焼して神輿庫と神輿、祭具も
焼失してしまいました。

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宝永6年(1709)東山天皇、霊元上皇より仮皇居の内侍所旧殿を本殿として下賜、新たに神輿本体(大宮神輿)が寄付され、併せて現在の神輿庫が建造されました。当時は本殿の北側にありました。

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天明8年(1788) 天明の大火により市中がまる2日間燃え続け、禁裏御所から民家まで約3万7千軒が焼失。火が迫る中、御神体を奉じて下鴨社内に仮遷座。当社はほぼ焼失するも神輿庫など土蔵は焼失を免れ、貴重な神輿や祭具、資料等が難を逃れました。

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寛政2年(1790) 再度宮中より仮皇居の内侍所旧殿を本殿として下賜。本殿再建に先立って神輿庫を現在地に移しました。安政3年(1856)
神輿庫を修飾しました。天保年間の祭礼図、7月18日が神輿迎(神幸祭)、8月18日が御霊祭(還幸祭)でした。

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元治元年(1864)の蛤御門の変の戦火で約2万7千軒が焼失。本殿の御神体を奉じて田中村から上賀茂村、最終的に今宮社に仮遷座。幸いにも焼失を免れ5日後に本社に還り鎮座。8月18日の御霊祭は巡幸中止、神事のみ斎行しました。

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明治以前は、皇居内を巡行して仙洞御所の御門前で神輿を奉安、御門内から上皇の拝覧があり、白銀を奉納されるのが恒例でした。令和元年5月1日の神幸祭は、天皇陛下御即位を奉祝して仙洞御所を巡行しました。

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宝永6年に賜った神輿は全国的にも最大級の神輿で、神輿庫により現在まで守られてきました。神輿庫は明治16年に修繕されましたが傷みが激しく、雨漏り等で貴重な神輿が破損する恐れがあり、今回全面修繕することにしたそうです。

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京都市の景観重要建築物等に指定されていることから、修繕して町並み保全にも寄与したいとしています。工事費用はクラウドファンディングを利用して、氏子に限らず多くの方にご協力をお願いしています。

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公益財団法人・京都地域創造基金として、目標金額38,000,000円だそうです。詳しくは下御霊神社のホームページをご覧ください。境内の北西に摂社と手水舎があり、その前で藤袴の鉢の手入れをしている方がいました。

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「手洗舎」 江戸時代の明和7年(1770)の干ばつの際、当時の神主が夢のお告げにより境内の一か所を掘らせたところ、清らかな水が沸き出て皆に汲ませることができたそうです。それは「感応水」と名付けられました。

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当時の井戸は現存しませんが、再堀された現在の井戸も同じ水脈からか、美味しいと評判になり、水を汲みに来る人が絶えません。

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コメント

平安時代という不安時代も、
災害と疫病。
今も昔も、変わらないのかもしれませんね。
災害と疫病は、永遠の課題ということでしょうか。
コロナは、疫病みたいなもので。
地震に台風に、考えてみると世の中怖いものだらけですよね。

投稿: munixyu | 2021年10月15日 (金) 18:01

★munixyuさん こんばんは♪
人間も自然の一部なので、自然災害や疫病を完全になくすことはできないということかも知れませんね。

投稿: りせ | 2021年10月27日 (水) 23:56

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