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2021年10月 4日 (月)

妙蓮寺と日像上人:

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は今頃の妙蓮寺(寺之内通堀川西入)の記事を再編集して、開山・日像(にちぞう)上人の不屈の人生と寺の受難の歴史を紹介します。

「妙蓮寺」は山号を卯木山(うぼくさん)という本門法華宗大本山です。「山門」は江戸時代後期(1818年)建立、御所から移築され、左右に両袖番所が付いています。

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妙蓮寺は鎌倉時代の永仁2年(1294)宗祖日蓮聖人より京都での布教の遺命を受けた孫弟子・日像上人によって創建されました。

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日像上人は、文永6年(1269)下総国に生まれ、俗姓は平賀氏、幼名は経一丸。建治元年(1275)に日蓮の弟子で兄の日朗に師事した後、日蓮の直弟子となり経一丸の名を与えられます。日蓮聖人像

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しかし弘安5年(1282)日蓮は没します。永仁元年(1293)日蓮の遺命を果たすべく、京都での布教を決意します。まず、日蓮の足跡を辿って佐渡で法華経を布教した後、北陸・七尾に向かいました。 「本堂」

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その船中での法論の結果、石動山の僧・満蔵(日乗)を弟子としました。満蔵により石動山に招かれ法華経を説くも、山上の大衆により満蔵共々追われます。本堂には本尊として十界曼荼羅を祀ります。

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永仁2年(1294)上洛して間もなく禁裏に向かい上奏。その後、辻説法を行い五条西洞院の酒屋・柳屋仲興、大覚寺の僧・大覚らが帰依しました。本堂の西にある塔頭「本妙院」

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柳屋仲興の未亡人が邸内に一宇を建立して上人を開山に招き、卯木山妙法蓮華寺と称したのが妙蓮寺の始まりです。(本妙院には、江戸時代前期の作と思われ、大ぶりの石を多用した豪快な枯山水庭園があり、京都市の名勝に指定されています。)

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徳治2年(1307)日像は延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの大寺から迫害を受け、朝廷に合訴されて京都から追放する院宣を受けました。院宣は上皇の命令です。右隣に塔頭「常住院」

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本堂の周りを右回りに廻ります。本堂の西には本妙院、常住院に加えて慈詮院(南)の計3院の塔頭があります。本堂の裏には渡り廊下があり、その下をくぐります。

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追放中、洛西・真言寺の住持・実賢、深草・極楽寺の住持・良桂、松ヶ崎・歓喜寺の住持・実眼らと法論を行い折伏しました。これらは洛外です。本堂の北(裏)には表書院(下)と宝物殿などの建物があります。

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延慶2年(1309)赦免され、京都へ戻ります。しかし翌年再び諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けました。延慶4年(1311)赦免されて京都へ戻ります。

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元亨元年(1321)三たび諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けるも直ぐに赦免。その後、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立。建武元年(1334)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許されて勅願寺となりました。

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その後、京都の法華宗はたびたびの法難にあいましたが、室町時代の応永年間(1420年頃)論争を契機に妙顕寺を出た日慶上人によって柳屋の地に本門八品門流として妙蓮寺が再興されました。「本坊」

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本坊は本山寺務所となっていて、拝観入口でもあります。書院庭園である「十六羅漢石庭」は桂離宮を造庭した当寺の僧・玉淵坊日首の作で、白河砂に16の石を配置し、北山杉を植え込んだ枯山水庭園です。

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中央の大きな青石は豊臣秀吉の寄進と伝えられる臥牛石で、白砂は宇宙を表し、15石は苦悩する民衆の中から立ち上がる菩薩(羅漢)を表現しているそうです。

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その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係が深い日応僧正を迎え、皇族を始め足利将軍義尚らも参詣。さらに、今出川家の公達だった日忠上人が改宗して三井寺から当寺に移り、学室道輪寺を創立して本化教学の道場を開きました。

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この頃、当寺は隆昌を極めて寺院の格式も高いものとなりました。しかし、天文5年(1536)法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗らの僧俗10万人によって襲撃される天文法華の乱(法難)が起こります。

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妙顕寺や妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山はことごとく焼失、堺に避難しました。(塔頭「玉龍院」、家庭料理がいただけるようです。他に、恵光院、本光院、円常院、堅樹院の計5院がこの通りにあります。)

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天文11年(1542)妙蓮寺は大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転しました。本堂の右(東)に松に加えて桜の木が並んでいます。

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「御会式桜(おえしきざくら)」 日蓮聖人入滅の10月13日頃から咲き始め、4月8日のお釈迦様の誕生日くらいまで咲く桜です。下の3枚は春の写真です。

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この桜の花びらを持ち帰ると「恋が成就する」といわれます。ただし、散ったのを拾って下さいということです。4月の撮影で、10月から咲き始める桜が春にこれほど満開になるのは珍しいそうです。

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江戸時代前期には、妙蓮寺は1km四方の境内に塔頭27院を有する大寺院となりました。しかし天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失、わずかに宝蔵・鐘楼 を残すだけでした。「鐘楼」

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妙蓮寺は、寛政元年(1789)から漸次復興して塔頭8院を残しています。戦時中は国の宗教統制により本門法華宗は日真門流、日陣門流と合流して法華宗が結成されました。

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戦後の昭和21年(1946)合同三派が解散、昭和27年(1952)本門法華宗が再興され妙蓮寺が本山となり、現在に至ります。

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