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2021年9月16日 (木)

道風神社 杉坂の守り神

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の雲ケ畑の後に道風(とうふう)神社を訪れました。今日は過去の記事に写真を追加、小野道風の生涯を中心に再編集してお届けします。名前の読みは正式には「みちかぜ」、「とうふう」は通称だそうです。

雲ケ畑の岩屋橋から少し戻り、途中から府道107号を杉坂方面に向かいます。府道は山を上り持越峠を越え真弓に入ります。かつて坂上田村麻呂がこの道を通って真弓集落に入り、弓をつくったと言い伝えられています。

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「小野道風」(894-967)は、大宰大弐・小野葛紘が尾張国春日井郡(現在の愛知県春日井市)に滞在中、里女を母に三男として生まれたとされます。(府道は南下して北山杉の林が現れてきます。)

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しばらくすると杉坂の集落があり、府道107号は府道31号と合流して終ります。府道31号は千本今出川から、鷹峯、京見峠、氷室、杉坂を通り、中川(杉坂口)で国道162号(周山街道)に合流します。府道31号を南に行くと杉坂道風町の標識が見えます(TOP)。

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道風は小野篁の孫でもあり、幼少から書に秀で、醍醐天皇の延喜5年(905)12歳にして大嘗会の屏風の色紙形を書いたといわれます。(杉坂川の向こうに「道風神社」がありました。左に「小野道風乃廟」の石碑、橋は「思君橋」です。)

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「道風神社」は平安時代の貴族で能書家の小野道風の栄達にちなんで、延喜20年(920)に氏神として祀ったのが始まりです。以後、この地域の産土神として信仰されてきました。ここは山城国葛野郡小野郷の一角で、小野氏の勢力範囲でした。

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山裾の斜面に沿って参道が続き、横の平地に「明王寺跡」の看板があります。明治以前の神仏習合の時代には、明王寺が道風神社の管理をしていましたが、明治になって明王寺は廃寺となりました。

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延喜20年(920)能書の撰により非蔵人に補され、翌年右兵衛少尉に任ぜられました。延長3年(925)少内記となります。(小野道風は明王寺に滞在して書の修行をしたといわれています。二の鳥居の先に池があります。)

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同年に勧修寺で行われた醍醐天皇の生母の贈皇太后・藤原胤子の法要で、道風は供養願文の法華経の清書役に抜擢されました。(愛知県春日井市のマスコットキャラクター「道風くん」)

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少内記は中務省に属し、道風は宮中で用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするのが職務でした。「積翠池」かって小野道風が硯の水に使ったといわれています。ここから内裏へは徒歩で1時間半ほどしかかかりません。

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道風の書の名声は高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされました。王羲之は中国の書家で政治家です。『源氏物語』でも道風の書を褒め讃え、後に藤原佐理と藤原行成と合わせ「三跡」と称されました。

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道風はそれまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いたとされます。延長4年(926)の遣唐使は、日本の文物を唐に誇示するため菅原道真らの漢詩とともに道風の書いた行書・草書各一巻を携行しました。(手水舎 自然の涌水です。)

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小野道風の真筆『智証大師諡号勅書』(東京国立博物館蔵、国宝、一部です) 延暦寺第5世座主円珍が、没後36年後の延長5年(927)法印大和尚位を賜り、「智証大師」と諡されたときの勅書です。

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延長6年(928)醍醐寺の西大門、東大門の額を揮毫、南大門にも道風の草書があげられ、得意の草書を選定した醍醐天皇の鑑識眼に道風は感激しました。朱雀天皇の下では従五位下に叙爵、内蔵権助や右衛門佐を務めました。(最後の石段です。)

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承平2年(932)大嘗祭において屏風の色紙型を揮毫、翌年康子内親王の裳着で屏風の色紙形を揮毫、天慶2年(939)『慈覚大師伝』を書写。(「明王堂」不動明王が祀られています。かっての明王寺の本尊なのかも知れません。)

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「和香(わこう)水 」の碑 冷泉天皇はこの水を御所まで運ばせて禁中御修法(みしほ)に用い、以後の天皇もこれにならいました。御修法は国家の安泰を願って宮廷に僧侶をよんで、密教の修法を行う法会です。右に井戸跡があります。

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村上天皇の時代、天慶9年(946)右衛門府の官人が職務を怠り会昌門を開かなかったとして処罰され、右衛門佐であった道風も贖銅2斤の刑に罰せられました。(左に舞殿があります。)

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翌年には荷前使(のさきのつかい)の差遣(献上品の受けとり)に無断で参加しなかったため解職されてしまいました。(かってこの神社の名勝「杉坂八景」があり、境内の庭園や社殿に加えて杉坂川がその一つとされました。)

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この頃の道風は何らかの問題を抱えていたようです。やがて仕事に復帰して、天暦7年(953)朱雀上皇御周忌の一切供養で『目録之外廿六巻』を分担執筆しました。右手の奥に本殿があり、その右に榊の巨木(京都市の巨樹木に指定)があります。

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天徳2年(958)道風は山城守への任官あるいは近江権守の兼帯を請う奏状を村上天皇に奉じました。(「本殿」祭神として小野道風を祀ります。本堂と明王堂は社が覆屋の中に入っています。)

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その願いは叶いませんでしたが、その文章は平安時代の代表的な詩文集『本朝文粋』に収められています。この頃には眼病(老人性白内障?)の進行により細字を書くことが困難になっていました。(舞殿の方を振り返って)

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それでも、第一の能書家としての評判は変わらず、翌年清涼殿で行われた詩合において、慣例であれば左右の各10首の清書は別人が書くべきところ、村上天皇は両方の清書を道風が行うことを命じました。

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ところで、花札のなかで柳に飛びつくカエルを見ているのが道風で、その逸話は昔の教科書にも載りました。道風が自分の才能のなさに自己嫌悪に陥り、書道をやめようと悩むほどのスランプのときのことです。

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蛙が柳に飛びつこうと繰り返す姿を見て、届くはずがないと思っていました。ところが、偶然にも強い風が吹いて柳がしなり、カエルは見事に飛び移りました。それを見た道風は、努力を続けたからこそ偶然をも自分のものにできると目が覚める思いがしました。

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以後、道風は血が滲むほどの努力をしたといいます。その柳にあやかってか、一の鳥居の横に枝垂柳の献木がありました。小野道風は康保3年(966)12月27日没。享年73。最終官位は正四位下行内蔵権頭。

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積翠池の中にカエル。

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コメント

花札の雨ですよね。
こんなところに道風がいましたか。
柳にカエル、いいですよね。

投稿: munixyu | 2021年9月16日 (木) 13:41

★munixyuさん こんばんは♪
私も知りませんでした。花札で唯一登場する人物が道風だそうです。

投稿: りせ | 2021年9月25日 (土) 00:21

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