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2021年9月 8日 (水)

平重盛と小松谷正林寺

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日はこの地(小松谷)に別邸を構えた平重盛(平清盛の嫡男)の物語を紹介して、最後にその庭園(積翠園)がフォーシーズンズホテル京都となるまでの変遷をたどります。

渋谷街道(渋谷通)を東に行くと、右手に正林(しょうりん)寺の山門が見えてきます。「正林寺」は山号を清涼山、院号を光明真言院という浄土宗の寺院で、かって小松谷御坊とよばれていました。

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平安時代末期、この地には平家の武将・平重盛(1138-1179)の別邸・小松殿がありました。その殿内には48の灯籠をともして念仏させたという灯籠堂があったといわれています。

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平重盛は清盛の長男で母は右近将監・高階基章(たかしなもとあき)の娘です。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)で父を助けて戦功を上げ、左近衛大将、正二位内大臣にまで出世しました。

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保元の乱では狼狽する父・清盛を励まし、馬を射られながらも獅子奮迅の戦いをしたといわれます。しかし、正室(後妻)の時子の子である宗盛や徳子とは異なり、有力な後ろ盾がありませんでした。

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それでも清盛の信頼は厚く、1166年清盛の後任として春宮大夫、翌年権大納言となり帯剣を許されます。その年、清盛が太政大臣を辞任する前に、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下されました。「寺務所」

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国家的軍事・警察権を正式に委任されて清盛の後継者としての地位を確立しました。また、丹後・越前を知行国として、経済的にも平家一門の中で優位にありました。(敷地内に「小松谷児童館」と「小松谷保育園」があります。)

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しかしながらこの頃から健康を害したようで、朝廷の儀式に欠席したり代理を出席させたりすることもありました。1168年2月清盛が病のため出家、福原に退隠してしまいます。(右の柵内が境内です。)

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重盛も体調不良が続いたらしくその年の12月に権大納言を辞任、清盛に代り六波羅には重盛が残って一門の統率にあたりました。(境内は児童館と保育園の運動場になっています。)

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その後権大納言に復帰するも部下の不祥事で辞任、再び復帰しました。1176年正月の後白河法皇の50歳の賀に、重盛は一門の筆頭として出席して、平家と法皇の蜜月ぶりを示しました。「阿弥陀堂(法王殿)」

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ところが、1177年に平家打倒の謀議(鹿ケ谷事件)が発覚、妻の兄・藤原成親が首謀と分かり、重盛は平家一門で孤立してしまいました。(阿弥陀堂には中央に阿弥陀如来、右脇侍に観音菩薩、左脇侍に勢至菩薩を祀ります。)

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この事件から重盛は気力を失い邸宅に籠るようになりました。1179年5月病状が悪化、6月後白河法皇が小松殿の重盛を見舞いますが、7月29日死去、享年42。「紹隆(じょうりゅう)塔」、紹隆とは、先人の事業を継ぎさらに発展させることだそうです。

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平重盛は、優れた武人であると共に穏やかで、情に厚く、穏和で気配りのできる人物だったといわれます。その死によって、後白河法皇と平家を結びつける絆が絶え、平家の滅亡を速めたともいわれます。(神護寺三像伝平重盛像)

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平家の没落後、鎌倉時代初めに摂政・九条兼実(かねざね)が小松殿の跡地に山荘を建てました。この山荘も小松殿と呼ばれたようです。先日の拾翠亭の記事で兼実の生涯を紹介しました。(阿弥陀堂の前の石仏)

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1196年に兼実は失脚すると法然に帰依、1201年長年連れ添った妻に先立たれ、翌年法然を戒師として出家。また、法然のためにお堂(御房)を建てて法談を聴いたといわれます。「本堂」

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法然が流罪となったときは、兼実は庇護するため配流地を自領の讃岐に変更しました。また、法然は御房で弟子たちに別れをつげたといわれます。中央に本尊・圓光大師(法然上人)、右に九条兼実、左に聖光房弁長を祀ります。

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聖光房(鎮西上人)は法然の弟子で、浄土宗の第2祖。本堂は大師堂ともよばれ かつての九条家の河原御殿を移して改修したものです。法然の流罪の後、御坊は廃絶して室町時代の応仁の乱で小松殿も焼失しました。「鐘楼」

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江戸時代中期の1733年、九条家の援助により僧・恵(慧)空が北野真盛辻子にあった正林寺を当地に移して、小松谷御坊を小松谷正林寺として再興しました。翌年には九条家から堂舎の寄進を受けて、伽藍が整えられました。(境内の隅に墓地があります。)

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この「阿弥陀経石」には逸話があります。平重盛は一族繁栄のため宋国阿育王山に砂金を送り、鎌倉時代の1198年返礼として経石が送られてきました。しかし、重盛はすでになく、平家も滅亡していたため、経石は宗像大社宮司屋敷に置かれました。

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江戸時代前期の1648年、有志によって重盛ゆかりの当寺に経石が遷されたといわれています。

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正林寺は法然上人二十五霊跡第14番となっていて、御詠歌は「千年経る小松のもとをすみかにて 無量寿仏の迎えをぞ待つ」。(境内の西に小さな池とお堂があります。)

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ところで、平重盛の別邸・小松殿の庭園は平家物語に「小松内府の園地」と記され 、舟遊びをはじめ、花見、月見、雪見のほか、茶会や宴などが行われていたことが伝えられています。

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江戸時代の1615年隣の妙法院の所有となり「積翠亭」や「積翠軒」などと呼ばれていたことが尭恕(ぎょうじょ)法親王の日記から明らかになりました。その後、元禄期に改修されたものの、現存する平安末期の数少ない庭園です。

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昭和29年(1954)日本専売公社が妙法院からこの土地を買収し、京都専売病院が管理してきましたが、後に東山武田病院の庭園となりました。上はその当時の写真で、東大路から、右が妙法院、左が東山武田病院の入口です。

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庭園は約10,000㎡、左回りの回遊式で中心の約3,000㎡の大庭池には東側に大島、西側に小島があり、大島の南側に並ぶ五つの夜泊石(よどまりいし)は不老不死の妙薬を積んだ宝船が港に停泊している姿をあらわしています。

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2016年9月に外資系の「フォーシーズンズホテル京都」が積翠園の敷地に開業しました。東大路通から女坂を少し上ったところにエントランスがあります。

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フロント階から積水園を見下ろします。ホテルのHPには積翠園の歴史と園地の詳しい説明が掲載されており、かっての姿を保存しているという自負があるようです。

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この日はお友だちとレストラン「ブラッスリー」でお昼のセットメニューをいただきました。

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レストランのテラス席の向こうに積翠園の池が広がります。池は左に見える橋で大小に分かれています。お食事の後、庭に降りました。

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石橋は以前からこの庭にあったもので、その貴重な庭園遺構を後世に伝えるために、極力手を加えることなく石橋に強化ガラスの橋を架けていす。古くから伝わる石橋をガラス越しに見ることができます。

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池の向こうに数寄屋造りの茶室が見えます。京都出身の建築家・山本良介氏によって設計され、京都産の檜によって釘を使わずに建てられ、 床部分は伏見深草の土を使用した叩き土間となっているそうです。

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上で紹介した五つの夜泊石は以前のままです。この五つの石のそれぞれは、水底では 2つの石が人字形に組まれており、平安時代初期からの石組手法のひとつとされています。左は「大島」です。

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右の小島の近くにも複数の「岩島(がんとう)」と呼ばれる石組 だけでできた島が見られます。これは小島の土砂が洗い流されてできたもので、本来は島の護岸石組であるとされています。

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池のほとりに「お地蔵様」が祀られています。隣接する妙法院によるとお地蔵様は江戸時代(1603-1868年)に建立され、大島にある石灯籠(写真に写っていませんが)は昭和時代より園内にあるそうです。

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この滝は荒廃した石組みと既存の景石を再利用し、重森三玲氏の実測図とその著述をもとに再現。地下水の供給量を見直して供給先を滝口に移設するなど水系システムをリニューアルしたことで、水質が改善されたそうです。

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 茶室は「楓樹」と「積翠庵」からなり、少人数のレセプションやミニワークショップ、立礼スタイルの茶会などに利用できるそうです。

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コメント

大昔の庭園が、
ホテルの一部になって残ってるって、
なんか凄いことですよね。
残るものは、こうやって残っていくのでしょうね。

投稿: munixyu | 2021年9月14日 (火) 14:14

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