« 道風神社 杉坂の守り神 | トップページ | 産寧坂と明保野亭事件 »

2021年9月17日 (金)

松花堂昭乗と石清水八幡宮・裏参道

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jny_5149a
※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の石清水八幡宮の社殿を後に、男山の東斜面にある裏参道を下ります。以下は、裏参道に坊(寺)を構えた高僧で文化人の松花堂昭乗(しょうじょう)に焦点を当てて、過去の記事を再編集しました。

裏参道沿いに様々な史跡が点在します。下は「宝塔院(宝塔跡)跡」で、平安時代から存在した天台密教系の仏塔でした。かっては軒の四隅に風が吹くと鳴る琴がかけられ「琴塔」とも呼ばれたそうです。

Jny_5377a

左の石段の上は東総門で、その横に「細橋(ささやきばし)」があります。かって本殿の東を源流とした石清水が下を流れていて、神聖なので渡ってはいけない橋だったそうです。

Jny_5383a

「松花堂昭乗」は安土桃山時代の天正10年(1582)和泉国堺に生まれ、文禄2年(1593)頃、近衛信尹(のぶたか)に仕えました。(細橋の先で道が二手に別れ、右は裏参道の下り坂です。左の展望台に寄り路します。)

Jny_5401a

近衛信尹は五摂家の近衛家の当主でこの時は左大臣を務めていました。上の建物は「八幡たけくらぶ」で、その前にカマキリ、トンボ、蛇、オナガドリなどの巨大な竹細工が飾ってあります。この団体は竹林の整備や竹細工の制作・販売をしています。

Jny_5405a

慶長3年(1598)17歳のときに昭乗は石清水八幡宮社士・松田秀知の猶子(養子)として出家しました。(この展望台はケーブルと社殿がある山頂との間の北斜面にあって、大山崎から、京都市南部、宇治市までが見渡せます。)

Jny_5437a

石清水八幡宮に入り出家、瀧本坊実乗に師事して密教を学びます。(中央の丘は桃山丘陵で、中腹に安土桃山城が見えます。右奥の山は比叡山、中央の川は宇治川です。)

Jny_5451a

師・実乗のもとで修業に励み、その後権僧都宝弁により両部灌頂をうけ阿闍梨位(密教を伝授する身分)に昇りました。(こちらは左の方で、桂川、木津川、宇治川の三川合流地点あたりです。中央は愛宕山、左に大山崎・天王山があります。)

Jny_5463a

谷崎潤一郎の生誕100周年を記念して建てられた文学碑。このあたり(大山崎から橋本にわたる中州)を舞台にした小説『蘆刈抄』の一節が刻まれています。

Jny_5486a

慶長20年(1615)5月大坂落城後、狩野山楽を匿っていたことで徳川方の厳しい詮索を受けるも、昭乗は「山楽は絵師であって武士にあらず」と言い張り、事なきを得たといわれます。(先ほどの分かれ道に戻り、裏参道の急な石段を下ります。)

Jny_5515a

「石清水社」(重文)、鳥居は江戸時代前期の1626年に周防守源朝臣重宗が寄進、右の社殿は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀り、1618年に周防守重宗が幕命により修造しました。

Jny_5525a

井戸は今でも水が湧いています。石清水社の前に「滝本坊跡」があり、昭乗の師・実乗が住職をしていた寺院跡です。昭乗は元和9年(1623)将軍秀忠・家光の上洛に際しての準備に奔走。

Jny_5530a

寛永元年(1624) 近衛信尋の推挙で将軍家書道師範として江戸に下向。寛永3年(1626)徳川義直を席主とした茶会を催し、小堀遠州とともに公武間の斡旋に尽力。寛永4年(1627)実乗の死後、瀧本坊の住職となりました。

Jny_5547a

寛永14年(1637)瀧本坊の焼失を期に住職を甥の乗淳に譲り、自らは泉坊境内に建てた方丈「松花堂」に隠棲しました。少し下ったところに「泉坊跡」(国史跡)があります(上の写真も)。

Jny_5565a

松花堂には、近衛信尋、小堀遠州、林羅山、木下長嘯子、石川丈山、佐川田昌俊、江月、沢庵らが集い文化的サロンとなりました。平成23年発掘調査で見つかった露地庭が保存されています。

Jny_5571a

茶室は、崖にせり出して造られた懸(かけ)造りの「空中茶室」であったことが判明し、制作に携わったとされる小堀遠州と昭乗の粋なアイデアがつまった茶室であったといえます。

Jny_5584a

ここまでの裏参道は祓谷に沿い、上の「影清塚」で表参道と合流します。ここから表参道は「七曲り」を経て麓に至ります。下は稲荷社で、かっては祓谷社があり、夏越大祓と年越大祓が行われていました。

Jny_5602a

明治の排仏毀釈で男山にある坊舎堂塔はすべて取り払われ売却されました。松花堂は泉坊書院・玄関とともに八幡女郎花の地(男山の西)に移築され、松花堂庭園として公開されています。時々、木の間から麓の景色が見えます。

Jny_5611a

二の鳥居の前に仮屋は9月15日に行われる「勅祭 石清水祭」の準備です。石清水祭は清和天皇の貞観5年(863)旧暦8月15日に「石清水放生会」と称して、魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀が始まりです。

Jny_5630a

「頼朝公ゆかりの松」源頼朝は49歳のとき、鎌倉から持参した6本の松の苗木を奉納し、その「六本松」の唯一の生き残りが昭和22年落雷により焼失、現在の「頼朝松」は昭和30年に奉納された2代目です。

Jny_5645a

摂社「高良(こうら)神社」 石清水八幡宮を創建した僧・行教が同時期に創建したといわれ、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの兵火で炎上、その後幾度かの再建・移築を経て、現社殿は明治39年に再興されたものです。

Jny_5650a

石清水八幡宮はもっぱら国家や朝廷の守り神でしたが、高良神社は八幡地区の氏神として住民たちの信仰を集めてきました。徒然草に仁和寺の法師が麓の極楽寺・高良神社などを本宮と勘違いして、山に上らず帰ってしまった逸話があります。

Jny_5677a

石清水祭は天暦2年(948)からは勅使が遣わされる勅祭となり、国家の安寧と国民の幸福を祈誓しました。山上の御本殿から御神霊が遷され頓宮殿で祭儀が行われてきました。「頓宮」の「南門」 

Jny_5649a

現在の石清水祭は加茂祭(葵祭)、春日祭とともに日本三大勅祭の一つとなっています。ただし、勅使は皇室に私的に雇われる掌典職が務めますが、勅祭の伝統は守られているといえます。「頓宮殿」

Jny_5697a

昭乗は真言密教を究めた高僧であると同時に、絵画、書道、作庭、茶道、和歌など多方面に才能を発揮した当代一流の文化人でした。書家としては近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」に数えられ「松花堂流」の祖となりました。「放生池」

Jny_5741a

松花堂昭乗は寛永16年(1639)9月18日死去、享年56。小堀遠州は、自分より5歳下の昭乗の死を悼み「我をおきて先立つ人とかねてより しらで契りし事ぞくやしき」。 「一の鳥居」

Jny_5746a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jny_5716a

|

« 道風神社 杉坂の守り神 | トップページ | 産寧坂と明保野亭事件 »

コメント

日本三大勅祭。
来年は祭りはどうなるのでしょうか。
ワクチン接種は、かなり進んでいるようですが、
まだまだ先が見えて来ないですよね。

投稿: munixyu | 2021年9月17日 (金) 19:35

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 道風神社 杉坂の守り神 | トップページ | 産寧坂と明保野亭事件 »