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2021年9月 7日 (火)

正法寺と京大和

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

正法寺(しょうほうじ)は先日の記事の霊山護国神社の参道(維新の道)から行くことができますが、改めて別の日に訪れました。今日は正法寺の最近の情報と料亭の京大和との関係を紹介します。

この日は維新の道から二年坂に入ります(今日は写真の枚数が多くなってごめんなさい。)

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二年坂を少し南に歩くと、左に「開山国阿上人参詣道 是ヨリ三丁」とある石標があり、こお東に向かう坂道を上ります。

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この道は霊山正法寺道といい、右はレストラン「ひらまつ高台寺」、左は「京大和」です。この時は京大和内のホテルがまだ建設中でした。

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この道は「幕末志士葬送の道」ともいわれています。右に「霊明(れいめい)神社神道墓地」があります。

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墓地の入口横に石碑があり、「坂本龍馬 中岡慎太郎 など 幕末志士葬送の道」とあります。平成22年(2010)NPO「京都龍馬会」が建立した記念碑です。

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さらに急な石段(TOPの写真)を上ると、霊山護国神社の前から南に行く道と交わります。この先の石段を上った突き当りに正法寺があります。ちなみに、洛西と八幡にある正法寺とは関係はありません。

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石段の途中にある「霊明神社」は、江戸時代後期の1809年、村上都愷(くにやす)が正法寺塔頭・清林庵が所有する山林1000坪を買い受けて建立。幕末の1862年に神葬祭を勧める長州・毛利家と関係を持ちました。

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以来、神道に基づく在京志士の葬送の地になり、長州の久坂玄瑞、池田屋事件で暗殺された吉田稔麿、近江屋事件で暗殺された坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉らが葬られました。

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「正法寺」は時宗霊山派の本山で、山号を霊山(りょうぜん)または霊鷲山(りょうじゅせん)といいます。山号がこの辺りの地名、霊山の由来になっています。横の木戸から入ります。

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この場所には、平安時代初めの延暦年間(728-805)、最澄(767-822)が天台宗の霊山寺を開いたとされます。当時の光孝天皇(830-887)の勅願所にもなりました。(山門の向こうにはさらに石段が続いています。)

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鎌倉時代前期の元久年間(1204-1206)法然(1133-1212)が念仏道場としたともいわれ、浄土宗の影響を受けたと考えられます。その後霊山寺は衰退しました。石段を上ると、二つの建物が向き合っています。

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南北朝時代の1383年、寺を譲られた国阿上人は正法寺と改めて時宗道場として再興、阿弥陀堂を建立しました。以後、時宗霊山正法寺派(霊山派)の本山になりました。「庫裡」

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本堂には、平安時代作の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩像、室町時代作の本尊・寝釈迦像を始め、雨宝童子像、国阿上人坐像、弁財天、大黒天、廃された塔頭の遺仏など多数を安置しています。

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南北朝時代の後小松天皇(1377-1433)、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)らも帰依して、正法寺は興隆しました。本堂の右奥に「鏡水(かがみのみず)」と呼ばれる井戸があります。

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名水とされ、藤原明衡(989 -1066)は詩で「洞水」、菅原孝標女(1008-1059)の『更級日記』では「山の井」と詠われています。かなり山を登ったところにありますが、今も水が湧いています。

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江戸時代には時宗十二派の「霊山派」の本寺とされて江戸幕府から朱印状を与えられ、塔頭十余を有したといわれます。本堂の裏には鎌倉時代の板碑(はんぴ)があり、国阿上人の墓が納められています。

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板碑は板石塔婆ともよばれ、板状に削った石碑を供養塔として使用したものです。「京都の三板碑」の一つに数えられ、他は紫野・西向寺、百万遍・了蓮寺にあります。

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奥の墓地に「品川子爵夫妻の墓」 品川弥二郎は長州出身で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に加わりました。維新後、内務大丞、枢密顧問官、宮中顧問官、宮内省御料局長などを歴任、1892年政治団体・国民協会を結成、副会頭となりました。

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殉職した維新の志士たちは、仏式の葬礼の場合は正法寺、神道の場合は霊山神社に葬られました。明治初年(1868)正法寺と霊明神社の境内地や墓地は上知になり、墓は東山招魂社(霊山官祭招魂社、後の霊山護国神社)に遷されました。

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正法寺は明治以降衰退し、現在は本堂(釈迦堂)、庫裏、塔頭1を残すのみとなりました。ただし、平成22年(2010)には400年ぶりに「日想観(にっそうかん)」が復活したそうです。

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江戸時代初期まで行われた行法で、極楽往生を願って西向きに座り、夕日を拝みます。西山の眺望がある寺ならではの修行法です。正法寺は現在なお再興中といえます。

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昨年10月から「京都時宗道場御朱印巡り」が始まりました。「道場」は修行の場を意味し、時宗の寺院は道場と呼ばれることがが多いそうです。時宗はかつて12派あり、その内6派の本山が京都にありました。

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その1番は事務局の長楽寺、2番・安養寺、3番・正法寺と続きます。ただし、正法寺は建物の修復工事中のため、御朱印は聞名寺(もんみょうじ)で受け付けているそうです。ようやく修復工事ができるようになったことが嬉しいニュースです。

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ところで、先ほど通った「京大和」の沿革は、上で述べた延暦年間(728-805)に最澄が霊山寺を開いたことから始まります。維新の道にある京大和の表門に「翠紅館(すいこうかん)跡」の駒札と石碑があります。

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沿革には天正年間(1573-92) 正法寺は豊臣秀吉の庇護を受け、この頃末寺42、塔頭14を数えたとあります。その塔頭の一つ東光寺が翠紅館の前身です。 (以下は紅葉の頃の写真で、新館で食事をしました。)

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天保年間(1830-43)鷲尾中納言が東光寺を買い受け改築して一時居住の後、西本願寺に寄贈。安政 3年(1856) 周防(山口県)の僧月性が翠紅館で西本願寺法主広如上人に会い海防論を説きました。(新館の窓から)

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安政5年(1858) 清水寺成就院の勤王僧月照が翠紅館で西郷隆盛としばしば密会。文久3年(1863) 尊皇攘夷派の各藩志士代表者の会議が翠紅館で催され、攘夷運動が頂点に達しました(翠紅館会議)。

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その後、明治時代に翠紅館は西本願寺より井上周(大阪の実業家)の手に渡り、大正時代には神戸の穀物貿易商・沢野定七が手に入れ以前の通りに建て替えたといいます。(お食事の後)

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一方、明治10年(1877) 阪口うしが大和屋を開業、昭和23年(1948) 翠紅館(および旧東光寺の敷地)は阪口祐三郎の所有となり、翌年この地で京大和を開業しました。この日は結婚式で翠紅館の中には入れませんでした。

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こちらは少し下にある「送陽亭」から。この建物は築360年の西本願寺の茶室で、翠紅館とともに尊王攘夷派の会合に提供されました。桂小五郎、武市半平太、久坂玄端、井上馨、真木泉守が集まり会合を開いたといわれます。

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京大和のHPによれば、送陽亭と同様に翠紅館も窓に八坂の塔がおさまるように設計されています。

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正伝寺の塔頭だった時にも、眺望がよいので会合に使われていたそうです。買い取った鷲尾家は、その景観の素晴らしさから「翠」と「紅」の素晴らしい館という意味で翠紅館と名付けたといわれます。

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コメント

結局今年の秋も、
コロナで寂しくなってしまいましたね。
ゆっくり京料理が楽しめる普通の日に、
早く戻って欲しいものです。

投稿: munixyu | 2021年9月11日 (土) 14:28

★munixyuさん こんばんは♪
緊急事態宣言が9月末まで延長され、まだ自粛生活が続きます。いつになったら普段の生活に戻れるか不安です。

投稿: りせ | 2021年9月14日 (火) 01:33

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