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2021年9月15日 (水)

維新の道から興正寺霊山本廟へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は、過去の記事に写真を追加、説明を再編集してお届けします。

先日の記事の正法寺と霊明神社から南に下り、霊山護国神社の南の鳥居まで戻ってきました。ここは峠になっていて、北には霊山護国神社が見え、左には霊山歴史館があります。

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峠から坂道を南に下ります。GoogeMapによると、二年坂から霊山護国神社の前を通り、コの字に曲がって産寧坂までの道を「維新の道」とよぶようです。

戦後、荒廃していた明治維新の志士たちの霊場を修復するため、昭和43年松下幸之助を会長とする「霊山顕彰会」が設立されました。霊場の修復整備に着手して史蹟公園「維新の道」を完成、昭和45年「霊山歴史館」を開館しました。「霊明神社神道墓地」

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維新の道は霊山護国神社の参道として整備され、この道も南の参道です。「ホテルりょうぜん」は2019年10月で営業を終了して、日本初の「京都東山バンヤンツリー」と「京都東山シックスセンシズ」が建設予定です。

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今年の4月の情報では上の2施設の開業時期が、近隣や行政との協議に時間を要して、当初の見込みよりも遅れて2024年となるそうです。向かいの「創貢庵」ゲーム開発会社のコーエーの施設です。

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「三塔庵」 1階にはダイニングルームがあり、庭で育てている新鮮な食材を用いた旬の料理が頂けます。昼は喫茶、夜はバーとしても利用可能。2階にはゲストルームと、自由に利用できる多目的スペースがあります。

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突き当りで西に曲がり、北側(右)にある「グランフォルム清水別邸」 築1985年、6階建、53戸のマンションです。

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南側(左)は興正寺(こうしょうじ)の霊山本廟の石垣が続きます。

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「興正寺」は山号を円頓山(えんとんざん)という真宗興正派の本山です。西本願寺の南隣にあり阿弥陀堂門横の紅白の梅は見事です。この場所には、宗祖親鸞聖人の御廟と檀信徒の墓地があります。 左手に「庫裡」。

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鎌倉時代、法然に師事して専修念仏に帰依した親鸞は、承元元年(1205)念仏教団への禁圧によって越後に流罪となります。庫裡の前の道の東に石段があります。

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儒学者・三国(みくに)大学(1810-1896)の顕彰碑。越前三国の豪商の家に生まれ、京都で鷹司家の侍講となり、私塾を開いて尊攘派と交わりました。安政の大獄で追放され、維新後は教部省権(ごんの)大講義などを務め「孝経傍訓」などを著しました。

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親鸞は建暦元年(1211)に赦免され、その翌年越後から京都に帰り山科に一堂を創建しました。この寺は、順徳天皇の勅願によって「興隆正法寺」、後に「興正寺」と名づけられました。「本堂」

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「興隆正法」は「正しい法を興し栄えさす」という意味だそうです。石段を上ったところに事務所・受付があります。

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元応2年(1320)、興正寺第7世了源上人は寺を洛東の汁谷(しぶたに、今比叡)に移しました。その頃 本尊が光明を放ったといわれたことから、後醍醐天皇から「阿弥陀仏光寺」の名前を賜りました。(鐘楼と親鸞聖人像)

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以後、一つの寺で二つの名前を用いることになりました。文明13年(1481)第14世蓮教上人(経豪)は興正寺を山科西野に再興して、当時山科にあった本願寺の蓮如上人と力をあわせて念仏を広めることに奔走しました。「流芳庵」

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一方、仏光寺は弟・教誉上人が継ぎ、それぞれの名の別の寺に分かれました。(鐘楼の周りには檀信徒の墓地があり、石段の上に京都の近代画家・菊池契月と義父・菊池芳文の墓があります。)

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芳文は幸野楳嶺門下の竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに「門下の四天王」とも呼ばれ、京都画壇正統の四条派の重鎮です。契月は彼のもとで研鑽を積み、数々の受賞を重ね芳文の娘と結婚、菊池姓を名乗りました。

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戦国時代の天文元年(1532)、六角氏と法華宗徒の焼き討ちにより、興正寺は山科本願寺とともに焼失してしまいました。(本堂の裏に本廟への石段があります。)

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安土桃山時代(1585年)第15世蓮秀上人は、本願寺とともに大阪天満に移転し、無事だったご真影を祀って天満興正寺を開きました。下は「国光大師(法然上人)別時念仏古跡」とあります。

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1568年に本願寺が門跡寺院となったときは、本願寺末寺別格として、興正寺も脇門跡寺院となり、本願寺に次ぐ位置を占めました。豊臣秀吉により本願寺とともに京都の現在地に戻り、1602年の本願寺の東西分裂では西本願寺に属しました。

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江戸時代になると西本願寺との間で本末論争が起こり、幕府によって興正寺の関係者が流罪になるという紛争がありました。その後もしばしば論争が続き、江戸時代後期には幕府から興正寺を西本願寺の末寺とする裁定が下りました。

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蓮教上人以来興正寺は西本願寺と行を共にしてきましたが、明治9年第27世本寂上人のときに、本来の興隆正法を果たすためとして本願寺から別派独立しました。その際、親鸞聖人の遺骨をこの廟に納め、歴代上人の墓も移しました。

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昭和60年(1985)には檀信徒のための個別納骨壇を備えた「浄華堂」を開設しました。本堂北の斜面の下にあり、本堂へは車いす用のリフトがあります。

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浄華堂から坂道を下ると手水舎があり、この道が檀信徒の方が墓にお詣りする参道のようです。

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左は先ほど歩いてきた維新の道(霊山護国神社の南参道)で、中央に「坂本龍馬の墓」という看板があります。

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庫裏の前の道は石畳の参道で、右の維新の道はイノダコーヒー清水支店(2020年6月に閉店)の横に出ます。イノダコーヒーは、堺町通三条下ルの本店、三条、四条、ポルタ、八条などの支店は営業しています。

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向うは産寧坂の下の道、通りに面して霊山本廟の参道入口があります(最後の写真)。

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