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2021年9月10日 (金)

雲林院 平安文学と紫式部

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北大路通と大徳寺通の交差点南東に「雲林院」があります。かっては紫野一体を占める大寺院で平安時代の様々な文学に登場しました。今日はそのいくつかを紹介します。

かって紫野(むらさきの)一帯は野が広がる狩猟地で、桜や紅葉の名所でもありました。禁野(天皇の狩猟地)として一般人の狩猟は禁止され、淳和天皇はこの地に広大な離宮「紫野院」を造営しました。

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『類聚国史』によると、平安時代初めの天長6年(829)10月10日、天皇は深泥池に出かけて水鳥の遊猟を行った後、紫野院に立ち寄って雅楽を楽しんだという記録があり、この時既に紫野院が存在していたことが裏付けられます。(南無地蔵大菩薩)

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淳和天皇は紫野院に度々行幸し文人を交えての歌舞の遊宴を催しました。832年4月には釣台に御し、陪従する文人に命じて詩を詠ませました。この頃紫野院は雲林亭に、さらに雲林院と改称され、仁明天皇に引き継がれました。(庫裏)

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850年仁明天皇が崩御すると、雲林院は寵愛された第7皇子・常康親王(?~869)に伝領されました。常康親王は悲嘆のため、翌年2月に落髪して僧となり、855には比叡山戒壇院にて受戒しました。

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常康親王のもとで雲林院は寺院化し、868年には惟喬親王(844~97)が母の追善のため法華経と観普賢経が納められました。翌年、常康親王は僧正遍昭(へんじょう)を招いて雲林院を仏寺にしてその年亡くなりました。

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以後、天台宗元慶寺の別院になり、天台教学の官寺として栄えました。遍照は学者・漢詩人の良岑安世(よしみねのやすよ)の子で桓武天皇の孫になります。仁明天皇、後に光孝天皇に仕え、仁明天皇の死去により出家しました。

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元慶寺(山科)を創建、後に僧正。歌人でもあり、六歌仙、三十六歌仙のひとりで、小野小町とも親交がありました。遍昭の歌碑「天つ風  雲のかよひ路  吹きとぢよ  をとめの姿  しばしとどめむ」(古今和歌集、百人一首)。

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雲林院は桜と紅葉の名所として『古今和歌集』以下の歌集の歌枕となり、道真は「従来勝境、風情に属(あた)る、青苔の地に心中の色有り、瀑布泉に耳下の声を遺(のこ)す」と庭園を称賛。 (左には墓地があります。)

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遍照の子の素性は「いざけふは春の山邊にまじりなん くれなばなげの花の影かは」(古今和歌集) 、「紫の雲の林を見わたせば法にあふちの花咲けにけり」(同)(十三重塔、翌年上部が倒壊してしまいました。)

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寛和年間(985-987)境内に念仏寺が建てられ「菩提講」が催されました。菩提講は極楽往生を求めて法華経を講説する法会です。『今昔物語集』に7度盗みを重ねて足を切られるところを助けられた鎮西(九州)の人が改心して菩提請を始めた話があります。

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『大鏡』は、菩提講で落ち合った老人の昔物語として物語が展開し、冒頭で雲林院が描かれています。在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲『雲林院』の題材にもなりました。

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西行法師「これやきく 雲の林の寺ならん  花を尋ねるこころやすめん」。『枕草子』には、清少納言が祭(葵祭)の行列を見るために雲林院の前に車を止めた話があります。

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さらに『山槐記』、『伊勢物語』、『平家物語』など、雲林院は平安時代の文学に必ずといってよいほど登場して、人々に親しまれた存在だったと思われます。

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雲林院は鎌倉時代になると衰退し、鎌倉時代末の正中元年(1324)に敷地が大燈国師(宗峰妙超)に贈られて大徳寺が創建され、その際雲林院も大徳寺の塔頭として復興されて禅宗となりました。 (紫雲弁財天)

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室町時代の応仁の乱(1467-1477)で焼失、廃絶しました。宝永4年(1707)の寺名が無くなるのを惜しんだ大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)によって再建されました。

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再建された「観音堂」には、本尊の十一面千手観世音菩薩と、大徳寺開山の大燈国師木像、中興の江西和尚の木像が安置されています。

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後に雲林院は再び衰退して観音堂と門だけが残されたといいます。昭和55-58年、寛道宗信により堂宇が修復、庫裏が建立されて現在に至ります。観音堂の右に賓頭盧(びんづる)尊者が祀られています。

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かっての雲林院は町名にその名が残るだけで、規模や正確な位置が不明でした。ところが、昭和55-58年雲林院町のマンション建設に伴って発掘調査が行われ、離宮・紫野院の東部の池泉や「釣台」と思われる建物跡などが発見されました。

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雲林院は紫式部ゆかりの地でもあります。大徳寺塔頭・真珠庵には「紫式部産湯の井戸」があり、紫式部はこの周辺で生まれ育ったとされ、その名も紫野に由来するといわれています。

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『源氏物語』第10帖の「賢木」では、「秋の野も見たまひがてら雲林院にまうで給へり」と、藤壺に拒まれた光源氏が亡き母・桐壺更衣の兄君のいる雲林院に籠って修行をして、天台六十巻を読みすすめます。

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紫式部は晩年も雲林院で過ごしたといわれ、寺の東の堀川通に面して墓があります。室町時代の源氏物語の注釈書『河海抄(かかいしょう)』には「式部墓所は白亳院南に在り、小野篁の墓の西なり」と書いてあります。

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紫式部はふしだらな絵空事で多くの人々を惑わせ、地獄行きになったと信じられていたようです。 源氏物語の愛好家たちは小野篁の墓に紫式部を救ってほしいと祈願したそうです。

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