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2021年9月11日 (土)

雲ケ畑の寺社と惟喬親王

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は、以前に訪れた鴨川の上流・雲ケ畑の記事を再編集してお届けします。

加茂街道(府道38号)を北上すると、加茂川中学の前に御土居跡があります。ここは鷹峯の方からくる御土居が賀茂川にぶつかって、南に折れる場所です。

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次第に北山が迫ってきて、府道38号は志久呂橋を渡り左岸を通ります。

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民家もまばらになってきました。

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鴨川公園運動場(柊野) 河川敷に野球、ソフトボール、サッカー場があります。

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府道38号は右に曲がって鞍馬方面へ行き、雲ケ畑へは直進して府道61号に入ります。

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府道61号は「雲ケ畑街道」とも呼ばれ、京北上弓削町に至ります。しばらくすると、北山杉の中を通ります。

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このあたりの冬は雪が深いのか、小さな集落にはかって茅葺屋根だった家が残っています。また道路脇のところどころに滑り止めの薬剤が入った袋が積んであります。

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「出合橋」 ここで、雲ケ畑川と中津川が合流します。この雲ケ畑川の流域の集落を「雲ケ畑」といい、古来から林業が盛んで3、平安時代からは大内裏修理職領となりました。

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「高雲寺」 臨済宗永源寺派の寺で、文徳天皇の第一皇子惟高(これたか)親王が閑居した「高雲の宮」跡と伝えられています。親王はここで落飾して宮を改めて当寺を創建したといわれています。(この日は訪れていません。)

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親王がなぜ都から遠い山間の地に住むようになったのは後ほど。(雲ケ畑は江戸時代には仙洞御所領となり、皇室との関係が深い集落でした。)

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雲ケ畑小学校・雲ケ畑中学校 在籍児童、生徒数がゼロとなったため(廃校ではなく)休校中とのことです。

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「厳島神社」 かっては延喜式に載る式内社で、女神・天津岩門別稚姫(あまついわとわけわかひめ)を祭神として、当地域の産土神かつ水源地を護る神として信仰されてきました。

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いつしか「雲ケ畑弁財天」と呼ばれるようになりましたが、明治の廃仏毀釈の際に安芸の厳島神社にあやかって現名称に改めたそうです。

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鳥居の前など樹齢400年を超えるスギや、当社東側斜面のトチノキが見事で、それぞれ平成13年(2001)に「区民の誇りの木」に選定されました。

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厳島神社の前に「雲ケ畑自治会館」

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「福蔵院」 正式名称を帰命山無量寿寺福蔵院という浄土宗の寺です。

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平安時代初めの延暦11年(792)伝教大師最澄の門弟空忍(橘軍氏)が、当地で法華三昧を修行中に雲ケ畑の山上に弥陀三尊を感得し、本尊を刻み堂宇を建立して安置したのが始まりとされます。かっては比叡山三千坊の一つに数えられていました。

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現在の本堂(上)は、安政元年(1854)に再建されたもので、堂内には本尊阿弥陀如来像を祀ります。観音堂(下)には、もと石清水八幡宮の豊蔵坊にあった豊臣秀吉の守護仏と伝えられる十一面観音像を安置しています。

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「岩屋橋」 ここで岩屋川と祖父谷川が合流して雲ケ畑川となります。この手前で道が二つに別れ、それぞれに料理屋/料理旅館があります。

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岩屋橋の手前で右に行く雲ケ畑街道沿いの料理旅館「洛雲荘」 ここの川床は川岸に建屋があり、夏は川魚料理、冬は牡丹鍋が有名です。大きな料理旅館で夏はかなり前から予約しないと席が取れないようです。

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岩屋橋を渡って行く道は鴨川源流にある岩屋山志明院に向かう道です。季節料理「畑嘉」こちらは宿泊はできないようですが、お手頃の料理があります。

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「惟喬神社」 惟喬親王を偲んだ臣下や里人によって、親王を祀るために創建されました。『拾遺都名所図絵』によると、親王が寵愛した雌鳥が当地で病死したため、ここに遺骸を埋めたとされ、「雌鳥社」とも呼ばれています。

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惟喬親王(844-897)は幼少から聡明で、父の愛情も深く次の皇位を継ぐはずでした。ところが、当時の右大臣藤原良房の娘・明子と文徳天皇の間に第四皇子・惟仁(これひと)親王が生まれると、良房らの圧力により皇位に就くことができませんでした。

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父は惟仁親王が成人に達するまでは惟喬親王にも皇位を継承させようとしましたが、藤原良房の反対を危惧した源信の諫言により実現できなかったとされます。絶大な権力を握った藤原義房が摂政となり藤原氏による摂関政治が始まった頃でした。

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14歳で現在の福岡県の大宰権帥に任ぜられ、その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任。しかし、病になると都を去り、当初は桟敷ヶ岳あたりに隠棲、翌年雲ケ畑に迎えられ、造営された高雲の宮で出家しました。親王28歳のときです。

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親王は歌人でもあり、古今和歌集など勅撰和歌集に数首選ばれています。また、人徳があったようで、在原業平や紀有常らが時々訪ねてきて、詩歌を以て親王をもてなしたといわれています。

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この地域だけでなく京都や滋賀の山間部では、惟喬親王に対する信仰の跡が残っています。隠棲中に木工技術を伝えたという伝承があり、木地師(きじし)の祖とよばれています。木地師とは、ろくろを用いて椀や盆などの木工品を作る職人です。

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江戸時代後期から明治の伝記集『前賢故実』には、惟喬親王は不満を抱かず、月や花を吟詠し、詩歌で楽しんだとあり、僧正遍照によみて贈ける歌「さくら花 ちらば散らなむ ちらずとて ふるさと人の きてもみなくに」。

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惟喬親王と僧正遍照は昨日の記事の雲林院にゆかりがあります。この後、鴨川源流の志明院を訪れた後、こちらの畑嘉で食事をしました。

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