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2021年9月 1日 (水)

霊山護国神社 龍馬の死後

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は、坂本龍馬の墓がある霊山護国神社を訪ねながら、あまり知られていない龍馬暗殺後の周囲の人々の物語を紹介します。数年前の記事を再編集しています。

先日の記事の圓徳院を出て、ねねの道を南に歩きます。下は「波ぎ茶寮」 京風蕎麦やかやくご飯などランチが頂けます。

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慶応3年(1867)11月15日京都の近江屋で坂本龍馬は中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され、龍馬は即死しました(近江屋事件)。「川端商店」 天然色材を用いた新万葉染めのmatoi(ストール)が人気です。

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16日共に切られた下男の山田藤吉が死亡、17日中岡慎太郎、絶命。関西近郊にいた海援隊士らが、幕府側の警戒網をかいくぐって近江屋に到着します。(「石塀小路」の入口 この日は外人さんが目立ちました。)

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「高台寺塔頭・春光院」 寛永4年(1627)北政所ねねが兄・木下家定の長男、木下勝俊の娘の菩提を弔うために建立しました。ねねはこの娘を自らの傍らに置いて可愛がりましたが、早死にしてしまいました。非公開で、山門の左に摩利支天の「触れ仏」がいます。

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11月17日夜になり海援隊・陸援隊らによってひそかに三人の葬儀が行われ、東山の霊明神社に埋葬されました。(「維新の道」まできました。)

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「京都霊山(りょうぜん)護国神社」は、明治元年(1868)明治天皇の太政官布告によって、幕末、明治維新の激動期の犠牲者を慰霊するために全国で初めて霊山官祭招魂社が創立されたのが始まりです。

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このとき、霊明神社の墓地も上知され、龍馬の墓も遷されたようです。その後何度か建物や社域の整備おこなわれ、昭和14年(1939)ほか3社の官祭招魂社を合併して京都霊山護国神社と改称されました。

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戦後になって神社は荒廃しましたが、昭和43年(1968)松下幸之助が「霊山顕彰会」を設立して境内の整備や建物の修復を行いました。そして、昭和45年にこの参道を「維新の道」と名づけました(下はその記念碑)。

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明治3年(1870)箱館戦争で捕虜となった元見廻組の今井信郎が、与頭・佐々木只三郎とその部下6人が龍馬を殺害したと供述、現在では見廻組犯人説が定説になっています。「拝殿」8月13~16日の「みたま祭」の提灯を掛けた鉄骨が残っています。

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龍馬が率いていた「海援隊」は長崎の本部と京都の屯所を拠点としていました。龍馬の死後混乱しましたが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が江戸へ撤退すると、海援隊士の長岡謙吉らは天領の小豆島の占領を企てました。奥が本殿です。

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新政府軍の土佐藩第一軍に呼応して四国諸藩の平定に協力、その功で小豆島を含む讃岐諸島は海援隊が統治権を確保し、長岡謙吉は正式に土佐藩から第2代海援隊長に任命されました。

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慶応4年(明治元年)4月に海援隊と土佐商会は解散。元海援隊士は長崎で「長崎振遠隊」に再組織され、イギリス船を借り受けて庄内藩と交戦し新政府軍の奥羽鎮圧に協力しました。社務所、左に墓地への入口があります。

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長岡謙吉は、新政府でも三河県知事、大蔵省、工部省など歴任しましたが、39歳の若さで病死しました。駅の改札のような入口です。

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終始龍馬と行動をともにして秘書役を務めた陸奥宗光は、新政府で外交を担当して幕府がアメリカへ発注した軍艦を折衝の上、新政府側で引き取り戊辰戦争で幕府の榎本艦隊を降伏させる契機となりました。

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さらに、陸奥は外交官としても辣腕を振るい、後に伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正に尽力します。爵位は侯爵。(石段をかなり上ります。)

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幕末に幕府勢力に対して抗戦した事件に1863年の「天誅組の変」があります。中山忠光と吉村寅太郎が主導して南大和で蜂起しました。幕府に鎮圧されましたが、後の討幕の志士に大きな影響を与えました。下は天誅組総裁・土佐藩吉村寅太郎の墓。

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石田英吉は海援隊の中でも長岡謙吉とともに「海援隊の二吉」と呼ばれた俊才で、陸奥が農商大臣のとき次官を務めました。下は「天誅組志士の墓所」。

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龍馬の妻・お龍は下関にいて、12月2日に龍馬の訃報が伝えられました。覚悟していたものの、髪を切って仏前に添えると大泣きしたといいます。龍馬との間に子はいませんでした。京都タワーが身近に見えます。

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坂本龍馬と中岡慎太郎の墓の前に来ました。この墓は海援隊と近江屋の資金によって建てられ、近江屋の内儀・スミは生涯墓参りを続けたそうです。

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龍馬の用心棒役の三吉慎蔵がしばらくお龍の面倒をみて、慶応4年(1868)3月龍馬の未亡人として土佐の坂本家に送り届けられました。しかし、坂本家での生活は長くは続かず、3ヵ月ほどで立ち去ることになりました。

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この銅像の龍馬は、寺田屋のお登勢が伏見在住の画家・田中松穂に描かせた遭難直前の肖像画をモデルにしたものだそうです。この像を拡大したものが円山公園にあります。

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龍馬の姉・乙女との不仲が理由との説もありましたが、お龍は後年の回顧談で、龍馬への褒賞金欲しさに義兄の権平夫婦が自分を苛めて追い出したと恨み事を述べています(真偽は不明ですが)。

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生前の龍馬の意思により、お龍の妹・起美は海援隊士の菅野覚兵衛と結婚、覚兵衛の実家の世話になりました。しかし、覚兵衛が海軍省へ出仕して米国へ留学することになり、明治2年(1869)中頃にお龍は土佐を去りました。「長州藩士の墓」 

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お龍は寺田屋のお登勢を頼りに京都へ行き、龍馬の墓近くに庵を結んで墓守をしながら暮らしていましたが、やがて京都にも居づらくなり、東京へ出ました。「桂小五郎(木戸孝允)の墓」 

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お龍は東京で勝海舟や西郷隆盛を頼り、同情した西郷は金20円を援助しました。明治7年(1874)神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働き、翌年西村松兵衛と再婚しました。隣に木戸孝允の妻・幾松(松子)の墓があります。

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明治16年(1883)土陽新聞に掲載された坂崎紫瀾の『汗血千里駒』が話題となり、忘れられた存在だった龍馬の名が広く世間に知られるようになりました。昭和45年(1970)開館の「霊山歴史館」明治維新関係の資料や文献を展示しています。

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夫に先立たれた妹・光枝がお龍をたより、3人で暮らすようになりましたが、やがて松兵衛と光枝は親しくなり去っていきました。その後、お龍は退役軍人・工藤外太郎に保護されて余生を送りました。

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お龍の働き口や再婚の相手を世話したり、面倒を見たのは龍馬にゆかりのあった人々と思われます。晩年のお龍は酒浸りで、酔っては「龍馬が生きていたら、私は公爵の妻になっていた」が口癖だったといいます。

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