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2021年7月10日 (土)

保元の乱ゆかりの地を訪ねて

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

題名の「保元の乱」は、崇徳上皇と後白河天皇の対立が周囲を巻き込み、勝敗を決めた武士がその後の時代の主役となる契機となった戦いです。(上や下のように、場所が書いていない写真は白峯神宮です。)

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特に意図したわけではないのですが、この乱が起こるまでの複雑な背景を最近の記事で紹介しました。白河法皇に寵愛された祇園女御、灯篭の事件で白河法皇から妊娠中の祇園女御を頂いた平忠盛と生まれた清盛。「祇園女御供養塚」がある女御の屋敷跡

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清盛が祇園社で起こした乱闘事件を処罰する議決で、清盛をかばった藤原通憲(信西)、厳罰を求めた藤原頼長(藤原長者、左大臣)、最終的に甘い裁断を下した鳥羽法皇。「祇園社」(八坂神社)

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待賢門院は幼少の時より白河法皇と祇園女御に養われて鳥羽天皇の中宮となり、白河法皇は生まれた第一皇子を即位させ(崇徳天皇)、鳥羽天皇は退位させられました。しかし白河法皇が崩御すると、情況が一変します。待賢門院が晩年を過ごした「法金剛院」

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崇徳天皇の短い在位期間のことです。六波羅蜜寺の南の門の正面に「弁天堂」があり、崇徳天皇の夢告により禅海が造ったといわれる弁財天が祀られています。(下)

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鳥羽上皇は璋子に代わって側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛、崇徳天皇に譲位を迫まり得子が生んだ第八皇子・体仁親王が即位(近衛天皇)。しかし、近衛天皇が17歳で崩御すると、待賢門院が生んだ後白河天皇を即位させました。「近衛天皇安楽寿院南陵」

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鳥羽法皇は、待賢門院が生んだ第一皇子・崇徳上皇は(自分ではなく)白河法皇の子であると思っていたので、後白河天皇の子・守仁親王を皇太子にしました。しかし、1156年鳥羽法皇が崩御します。「鳥羽天皇安楽寿院稜」

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すると、崇徳上皇と藤原頼長が軍を率いて反乱を起こそうとしている、という噂が流れ始めます。そのため、後白河天皇は頼長が兵を集めることを禁じて、財産も没収します。下2枚は大将軍神社(東山三条)。

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当時、頼長が所有、没収された屋敷「東三条殿」が現在の大将軍神社(東山三条)の場所にありました。藤原道長は父兼家の神像画を合祀して鎮守・東三條社を造りましたが、屋敷は保元の乱で焼失しました。

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琵琶湖疏水の夷川船溜にある「白川南殿跡」、白河上皇は院御所として幼帝を補佐しました。ここから北には白川北殿があり、保元の乱の舞台となりました。

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崇徳上皇と頼長は挙兵するしかない状態に追い詰められます。崇徳上皇側には、武士の源為義、貴族の左京大夫・藤原教長、右馬権頭・藤原実清、左近衛権中将・源成雅などが加わり、白川北殿で合流して後白河天皇方を迎えます。「京都大学熊野寮」

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後白河天皇方には貴族では関白・藤原忠通、側近の信西、右大臣・徳大寺実能、武士では平清盛、源為義の長男・源義朝、右衛門尉の源義康、兵庫頭の源頼政が加わりました。白川北殿は京大熊野寮(丸太町通東大路西入)の辺りにありました。

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都での噂から拘束されることを恐れた崇徳上皇は院御所だった鳥羽田中殿から脱出、白川北殿に向かいました。城南宮の西にあった「鳥羽離宮」は、白河上皇が造営を始め、鳥羽上皇の頃に完成した院御所です。現在公園になっています(下)。

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7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝200余騎が大炊御門大路を、義康100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘が始まりました。「白川北殿跡」

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『保元物語』では白川北殿の門での激闘が描かれていますが、実際は鴨川を挟んでの一進一退だったようです。攻めあぐねた天皇方は白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放ち、辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移ると上皇方は総崩れとなりました。

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崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらましました。天皇方は、残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払いました。法勝寺は白河法皇が造営した大伽藍で、下の「京都市動物園」を含む敷地がありました。

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後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結しました。下は釜座通から、姉小路通を東に入ったところにある「高松神明(しんめい)神社」。

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ここは、平安時代初期、醍醐天皇の皇子・高明親王(914-982)が七歳のとき源朝臣の姓を賜り、源高明の屋敷・高松殿を造営した跡地。その後、女御や上皇の御所となり、後白河天皇がここで即位して里内裏として使い、保元の乱では天皇方の拠点となりました。

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13日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺の同母弟の覚性法親王を頼って出頭、源重成の監視下に置かれました。頼長は合戦で首に矢が刺さり、南都(奈良)まで逃げ延びましたが14日に死去。「安井金毘羅宮」

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この地は、藤原鎌足が仏堂を建て、紫色の藤を植え「藤寺」と名付けた場所でした。崇徳上皇はこの藤を愛で、1146年に堂塔を修造して寵愛する阿波内侍を住まわせ、たびたび訪れました。

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23日、崇徳上皇は讃岐に配流されました。天皇や上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱での淳仁天皇の淡路配流以来、約400年ぶりでした。上皇は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の1164年にこの世を去りました。「崇徳天皇御廟」

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上皇の寵愛を受けた阿波内侍は遺髪を請い受け、この地に一塚を築き、亡き上皇の霊を慰めたと伝えられています。安井金毘羅宮の北鳥居のすぐそばにあります。

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聖護院の隣の積善院境内の北西隅に「崇徳院地蔵」があります。 非業の死を遂げた上皇の霊を慰めるために屋敷があった場所に「崇徳天皇廟」が建てられました(後の粟田宮)。

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しかし、長い年月とともに粟田宮は衰退して地蔵尊だけが残りました。1899年その場所に京都大学病院が建設され、地蔵尊は積善院に遷されました。怨霊を恐れるあまり、なまって「人食い地蔵」と呼ばれました。

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幕末の風雲急を告げる中、孝明天皇は、保元の乱によって非業の死をとげた崇徳上皇の御霊を慰めて、未曾有の国難に加護を祈ろうとしました。しかしながら、叶わぬまま崩御して明治の時代を迎えました。(白峯神宮に戻りました。)

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明治元年(1868)、父の遺志を継いだ明治天皇は、公卿の「飛鳥井家」の邸宅地跡に社殿を建造して、四国・坂出の「白峰山陵」から崇徳天皇の御霊を遷して祀りました。合わせて淳仁天皇の御霊も祀っています。

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「崇徳天皇欽仰之碑」 欽仰(きんぎょう)とは、崇拝し慕うことだそうです。右に百人一首の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」 保元の乱の16年前に詠まれましたが、後の運命を暗示しているといわれています。

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