« 雙林寺道から下河原通へ | トップページ | 祇園石段下の商店たち »

2021年7月 4日 (日)

祇園乱闘事件の真相

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Amy_1804a
※写真は全てクリックで拡大します。

平安時代、祇園社(八坂神社)の境内で起こった乱闘事件は、当時の権力者たちを巻き込んでその後の歴史にも影響を与えました。以下の経緯は鳥羽上皇の命により信西(藤原通憲)が編纂した『本朝世紀』によります。

久安3年(1147)6月15日、祇園臨時祭の夜に平清盛は宿願の成就を祈って田楽を奉納しようとしました。祇園臨時祭は祇園御霊会(現在7月24日に行われる還幸祭の翌日)で、朝廷から奉幣が行われました。

Amy_1814a

この田楽を警護していた清盛の郎等達は、武器を持ったまま祇園社へ立ち入りました。彼らを見た祇園社の神人(下級神職)はその武装の解除を求めました。

Amy_1816b

しかし清盛の郎等はその要求を受け入れず、ついには乱闘へと発展、放たれた矢が本殿に突き刺さり祇園社の権上座隆慶をはじめ多数の負傷者が出ました。 下は当時の祇園社の境内で、建物は現在と同じ配置です。

Amy_1286a

乱闘騒ぎは深夜に及び、さらにこの後も尾を引きます。6月26日になって祇園社の本寺であった延暦寺の所司が参院して闘乱の事を訴えました。当時は神仏習合時代で祇園社(祇園感神院)は延暦寺の末寺でした。

Amy_1249a

これに対して平忠盛は先手を打って、下手人7人の身柄を院庁に差し出し、鳥羽法皇はこれを検非違使庁に引き渡しました。忠盛は清盛の父でした。「平忠盛」(江戸時代、菊池容斎画)

Taira_no_tadamori01

しかし延暦寺は納得せず、28日には衆徒が日吉社・祇園社の神人とともに神輿を押し立てて、忠盛と清盛の配流を求めて強訴を起こしました。「強訴」とは、朝廷に不満を持った僧侶たちが要求を通すため、武装をして神輿を担いで訴える行為です。

Amy_1222b

当時、神輿を傷つけると神罰が下ると信じられ、武士たちは手出しができませんでした。また、後の建久2年(1191)の強訴では手出しをした佐々木定重が斬首されたほどの重罪とされました。(強訴とは関係ありませんが八坂神社の神幸祭)

Dsj_0020a

法皇は衆徒の入京を阻止するため、源光保らの軍兵を切堤の辺に向かわせて防備を固めました。衆徒は徒党を組み、わめき叫ぶ声が洛中に響き渡ったといます。忠盛の灯籠の横に事件の説明板があります。

Amy_1292b

法皇は側近の藤原顕頼を奏者として院宣を下し、3日以内に事実を調査して裁決すると約束、衆徒は一旦引き下がりました。30日の夕方、白河北殿に藤原忠通・藤原頼長、源雅定らの公卿が集まり議定が開かれました。

Amy_1278a

忠盛は事件に関知していないので責任はなく、下手人を尋問すべきという意見が多数でしたが、頼長は本人が関知していなくても当主は責任を免れることはできないと主張しました。(丸太町通東大路西入)

Jmz_6903a

白河北殿で藤原頼長が平氏に厳罰を求めて鳥羽法皇や藤原通憲(信西)と対立したことが、後の保元の乱の一因となります。(京大熊野寮の北西隅に白河北殿跡の石碑があります。)

Jmz_6915a

顕頼は議定の結果を法皇に奏上し、ひとまず現場を検分する使者を出すという方針が定まりました。その日の夜に検分の使者が祇園社に派遣され、延暦寺の所司とともに矢の突き刺さった場所、流血の痕跡、損失物などの調査を行いました。

Amy_1290a

7月5日、検非違使庁で拷問を受けた下手人が矢を射たことを自白。8日に延暦寺・祇園社の書状、検分による被害の調査報告書、検非違使庁の尋問記録に基づいて法家(ほうけ、法律家)に清盛の罪名を勘申するよう宣旨が下りました。

Amy_1376a

しかし中々裁許は出ず、洛中には衆徒らが再び入洛しようとしているという噂が流れました。法皇が清盛の罪を決したのは8月5日になってのことで、贖銅三十斤(銅を納める罰金刑)という軽いものでした。

Amy_1821a

鳥羽法皇は幼くして即位、長らく院政を敷いていた白河法皇が没し、平忠盛・清盛を頼って政治力を発揮しようとしていました。白河法皇を悩ました延暦寺をかわしこの事件を乗り越えたことから自信を持った一方、武士の力が増大したともいわれます。

Amy_1818a

法皇は延暦寺の不満を鎮めるため、翌久安4年(1148)2月20日、祇園社で法華八講を修したのをはじめ、何度も謝罪の意を表しています。忠盛も関係修復を図って自領を祇園社に寄進しました。「鳥羽法皇肖像画」(安楽寿院所蔵)

Tobahoukou01

以後の数年間清盛の行動記録がなく謹慎していたともいわれます。その間、清盛の弟・家盛は鳥羽法皇に気に入られ、昇進を続けて清盛の位階に近づいていましたが、久安5年に病死してしまいました。「清盛肖像」(南北朝時代、天子摂関御影)

Taira_no_kiyomori01

弟の死により清盛の家督相続が確定したようで、同年6月高野山根本大塔の再建をになった忠盛の名代として事始めの儀に代参、11月天王寺に参詣した鳥羽法皇に供奉、仁平2年(1152)鳥羽法皇の50歳を祝う五十賀の儀の中心となりました。

Amy_1825a

ただし保元の乱の後まで清盛の官職の任替と昇進が止まり、事件がトラウマとなって延暦寺との対立を極力避けるようになったといわれます。一方、延暦寺では事件の解決に不満を持った衆徒が天台座主・行玄を襲撃、以後3ヵ月に渡って内紛が続きました。

Amy_1829a

その後、鳥羽法皇の第四皇子だった後白河法皇が、平家の都落ちの際に比叡山に逃げんだことが平家の運命を決めたといわれています。当時の祇園社の祭神はインドの祇園精舎の守護神・牛頭天王で、日本の祇園信仰の聖地でもありました。

Amy_1832a

祇園乱闘事件の後の推移を見ると、『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」にはもっと具体的な意味もあると考えられます。

Amy_1834a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Amy_1240a

|

« 雙林寺道から下河原通へ | トップページ | 祇園石段下の商店たち »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 雙林寺道から下河原通へ | トップページ | 祇園石段下の商店たち »