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2021年7月13日 (火)

栄西禅師と建仁寺

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は建仁寺を開いた栄西(ようさい)禅師に焦点を当て、今頃の建仁寺の記事を再編集しました。最初に、建仁寺の現在に至るまでの歴史を簡単に。

「建仁寺」は鎌倉時代前期の建仁2年(1202)将軍・源頼家が寺域を寄進し、栄西禅師を開山として宋国の百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。(拝観入り口の「庫裏」)

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その後の1259年宋の禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ、純粋の禅の道場となりました。(下は拝観区域の見取り図です。)

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室町時代になり、幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、建仁寺はその第三位として厚い保護を受け大いに栄えましたが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃しました。 (ビデオルームに複製の風神雷神図屏風と金澤翔子書「風神雷神」があります。)

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安土桃山時代の天正年間(1573-1592)になって、安国寺恵瓊(えけい)が方丈や仏殿を移築して復興が始まりました。下は禅の神髄を表すとされる「〇△▢(まるさんかくしかく)乃庭」

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江戸時代になり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建・修築され、制度や学問が整備されます。(小書院から「潮音庭」 小堀泰巌老大師(臨済宗建仁寺派管長)の作庭、北山安夫監修による苔庭です。)

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明治時代になり、政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派が分派独立、建仁寺はその大本山となりました。(渡り廊下を大書院の方に向かいます。右が潮音庭。)

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また、神仏分離令後の廃仏毀釈により塔頭の統廃合が行われ、余った土地は政府に没収され、境内が半分近く縮小されて現在にいたります。(清水五条の陶器職人が献上した「陶製十六羅漢像」が展示されていました。)

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大書院から潮音庭、大小の島を流れが回る様を表すといいます。秋に紅葉するヤマモミジ、ドウダンツツジ、冬の唯一の緑、常緑樹のヤブツバキが植えられています。

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ところで、開山の明庵栄西(みんなんようさい)は、永治元年(1141)備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として誕生しました。(もう一度渡り廊下を戻り、右にある方丈に向かいます。)

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久安4年(1148)8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられ、仁平元年(1151)備中の安養寺の静心に師事しました。(方丈の北庭と「納骨堂」)

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久寿元年(1154)14歳で比叡山延暦寺で出家得度。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学びます。行法(密教の修法)に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興しました。(方丈の西庭に降りて北にある茶室を見に行きます。)

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保元2年(1157)静心が死去、遺言により法兄の千命に師事、平治元年(1159)19歳の時に比叡山の有弁に従って天台宗を学びました。(方丈の北庭にある「田村月樵遺愛の大硯」、方丈には月樵による障壁画「唐子遊戯図」があります。)

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仁安3年(1168)4月形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学します。天台山万年寺などを訪れ、9月に『天台章疎』60巻をもって、重源らと帰国しました。茶室の「清涼軒」

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当時の南宋では禅宗が盛んで、日本仏教の精神の立て直しには、禅を活用することを決意しました。(茶室「東陽坊」は、豊臣秀吉の北野大茶会(1587)で利休の高弟、天台宗の僧・東陽坊長盛が担当した副席だったとされます。)

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文治3年(1187)栄西は再び入宋。仏教の旧跡をたどるためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう) に師事。(方丈に戻り、庭の南西隅に織田有楽斎が兄の信長追善のために立てた供養塔があります。)

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臨済宗黄龍派の禅を5年にわたり修行、虚庵懐敞の法を受け継いで「明菴」の号を授かり、建久2年(1191)に帰国しました。(方丈南庭「大雄苑」にある唐門、南から勅使門、三門、法堂と一直線上にあります。)

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「建仁寺方丈障壁画」(重文)は、かつて方丈に飾られていた全50面の襖絵で、安土・桃山時代から江戸時代にかけて活躍した海北友松が制作、「竹林七賢図」、「琴棋書画図」、「雲龍図」、「山水図」、「花鳥図」から構成され日本を代表する大障壁画です。

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延暦寺や興福寺から排斥され、禅宗停止が宣下されるなど、都での禅の布教は困難を極めました。建久6年(1195)博多に聖福寺を開き、日本最初の禅道場としました。(障壁画は襖から掛軸に形を変えて、現在は京都国立博物館に保管されています。)

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2009年京都文化協会と(株)キヤノンが「綴プロジェクト」を開始、全50面の高精細複製品が制作され、2014年開祖・栄西禅師の八百年大遠諱記念事業として、元の襖の姿で建仁寺に寄贈されました。下は「雲竜図」。

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建久9年(1198)『興禅護国論』を執筆、禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説きました。(最初に見た風神雷神図屏風も同プロジェクトによる高細密複製です。方丈の南にある「法堂」に向かいます。)

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栄西は鎌倉に下向して、幕府の庇護を得て正治2年(1200)頼朝一周忌の導師を務め、北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されました。(法堂の正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られています。)

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その2年後に鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立、悲願を果たしました。当時は禅・天台・真言の三宗兼学の寺で、幕府や朝廷の庇護を受けて禅宗の振興に努めました。(天井の双龍画は「小泉淳作画伯」筆。)

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建保3年(1215)6月5日建仁寺で示寂、享年75。境内の南東にある「開山堂」(旧・護国院)が塔所です。

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栄西は宋から茶種を持ち帰り栽培、『喫茶養生記』を著し茶は養生の仙薬、喫茶は延齢の妙術と説き、その普及と奨励に勤めて「日本の茶祖」といわれます。開山堂の近くに「茶碑」があります。

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建仁寺では、今年も4月20日栄西禅師の誕生を祝する法要「開山降誕会」(四頭茶会) 、6月5日入寂の忌日に厳修する「開山忌」が行われ、7月30日 戒律に厳格だった栄西禅師伝来の法会「布薩会」が行われます。

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