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2021年7月 9日 (金)

待賢門院と法金剛院の蓮

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

明日から拝観を再開するとのことで、今日は法金剛院にしました。寺を復興した待賢門院に焦点を当て、過去記事を再編集してお届けします。拝観は「観蓮会」として7月10日(土)~8月1日(日)の期間、受付7:30~12:30、閉門13:00です。

双ヶ岡の南東のこの地には、平安時代の初めに右大臣清原夏野(なつの)の山荘があり、その没後寺に改められて双丘寺(ならびがおかでら)と呼ばれました。

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境内には様々な珍しい花が植えられていたので、このあたりの「花園」という地名の由来になったそうです。当時の天皇が相次いで訪れ、仁明天皇(在位833-850)は、境内北の山から見えるこの景勝に五位を与えたことから、山は五位山と呼ばれるようになりました。

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その後、文徳天皇(在位850-858年)の勅願によって大伽藍が建てられて定額寺(じょうがくじ)となり、天安寺と改められました。しかしながら、火災などで寺は次第に荒廃していきます。(拝観受付を済ますと、さっそく蓮の花がお出迎えです。)

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大治5年(1130)鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)が天安寺を復興して、法金剛院と名づけました。庭園は池泉回遊式浄土庭園で、池の蓮がところどころで咲いていました。(最初に池を一周してきます。)

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待賢門院は、西方極楽浄土の世界を再現するため、仁和寺の伊勢房林賢と徳大寺の静意に作庭を命じました。池の南に南御堂、東に宸殿(女院御所)、西に西御堂(阿弥陀如来像を安置)を建て、西方浄土を拝むようになっていました。

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広大な池のほとりに白砂を敷き、中島へは欄干付の反橋が架けられていたそうです。池泉には極楽浄土に咲く花とされる蓮が植えられ、境内にの桜、菊、紅葉とともに花の名所となり、西行を始め多くの歌人が歌を残しています。

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現在池の西に見える建物は本堂で、江戸時代の元和3年(1617)に再建されたものですが、正面の唐破風造の車寄は大正5年(1916)の建築です。

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藤原璋子(1101-1145)は閑院流藤原氏の出身。父は正二位行権大納言・藤原公実(きんざね)、母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子、後に絶世の美女といわれました。「待賢門院像」(法金剛院蔵)

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幼少の時より、朝廷の最高権力者・白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われ、7歳の時に実父・公実を失いました。永久3年(1115)頃、摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がりました。

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しかし、璋子の素行に噂があったため忠通の父・忠実が固辞、白河法皇の不興を買って忠実は関白を罷免されました。永久5年(1118)白河法皇を代父として、父方の従弟・鳥羽天皇に入内、4日後には女御、1月後には中宮となりました。 

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元永2年(1119)第一皇子・顕仁親王を出産。その後、保安3年(1122)禧子内親王を産みました。(現在の池泉は、かって瓢形をしていた池の北側のごく一部だそうです。)

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保安4年(1123)白河法皇は5歳になった顕仁に践祚(せんそ、天皇の位に就くこと)させて崇徳天皇となり、璋子も翌年院号を宣下されて待賢門院と称しました。池を一周した後、本堂(礼堂)に上がりました。

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本堂の裏の新しい阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来を安置、さらに北にある地蔵堂まで廊下が続いています。裏庭の向こうに双ヶ丘が見えて、かっての風景がしのばれます。

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その後、璋子は大治2年(1127)雅仁親王(後の後白河天皇)、2年後に末子・本仁親王(後の覚性法親王)など、鳥羽上皇との間に5男2女をもうけました。(もう一度境内に降りて、池の北側を見て回ります。)

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璋子は鳥羽上皇の熊野詣にも同行、二人は仲睦まじく見られていましたが、それは白河法皇の在世中であればこそでした。大治4年(1129)白河法皇が77歳で崩御すると、本仁親王を懐妊中の璋子の人生は暗転しました。

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「青女の滝」待賢門院は池泉に注ぐ水源として、巨石を用いて「青女(せいじょ)の滝」を造らせました。青女は秋の神で、霜と雪を降らすのだそうです。滝からは遣水が引かれて池泉に流れ込んでいました。

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昭和43年(1968)に発掘、後に復元された「青女の滝」は、「日本最古の人造の滝」として昭和45年(1970)に国の特別名勝に指定されました。ちなみに、国の特別名勝は現在36件だけだそうです。

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鳥羽上皇は(白河法皇によって関白を罷免され逼塞していた)藤原忠実を起用し、その娘の泰子(高陽院)を皇后に立てたばかりでなく、璋子に代わって側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛しました。平安時代には皇后は中宮より上の地位でした。

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保延5年(1139)鳥羽上皇は得子が産んだ生後3ヶ月の第八皇子・体仁親王を立太子させ、2年後の永治元年、崇徳天皇に譲位を迫って体仁を即位(近衛天皇)させました。 即位とは即位の礼によって新天皇を内外に公表することです。

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この頃、得子を標的にしたとされる呪詛事件が相次いで発覚、璋子が裏で糸を引いているという噂が流されました。さらに、崇徳上皇は白河法皇の子だとする噂も囁かれました(これは『古事談』のみに見られ、真偽は不明)。

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後ろ盾を失った璋子は、翌年(1142)自ら建立した法金剛院においてわが子仁和寺の覚性法親王の手で落飾、出家して法金剛院で過ごすことが多くなりました。3年後の久安元年(1145)崩御。享年44。

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北面の武士だった西行は美貌の待賢門院を深く思慕して「なんとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけん人の心知られて」、その没後「紅葉みて君が袂やしぐるらむ昔の秋の色をしたひて」と詠みました。「芹摘む人」は高貴な女性にかなわぬ恋をすることです。

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待賢門院の没後10年目の久寿2年(1155)近衛天皇が17歳で崩御、璋子の生んだ雅仁親王が天皇に指名されました(後白河天皇)。このとき、朝廷は(どちらも璋子の生んだ)後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が勃発しました。

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その後の法金剛院は、鎌倉時代に円覚十万上人が復興しましたが、応仁の乱、天正・慶長の震災で堂宇を失い、元和3年(1617)照珍和尚が本堂・経蔵等を建立するも、かっての姿を取り戻すまでには至りませんでした。

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コメント

もう、蓮の花なんですね。
季節だけは順調に移り変わりますよね。
いい花です。

投稿: munixyu | 2021年7月 9日 (金) 13:47

★munixyuさん こんばんは♪
蓮の花が咲くと、夏が来た気分がしますね。でも、昼には花が閉じてしまうので、遠くに見に出かけるのは大変です。

投稿: りせ | 2021年7月13日 (火) 00:23

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