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2021年7月11日 (日)

平治の乱ゆかりの地を訪ねて

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は、昨日の保元の乱に続いて起こった平治の乱を取り上げます。保元の乱で勝利した後白河天皇は、治天の君として実権をにぎり、荘園整理を軸とした政治改革に乗り出します。

断らない限り、写真は当時の平家の屋敷「六波羅第」の跡地に建てられた六波羅蜜寺です。「六波羅蜜寺」は山号を普陀落山(ふだらくさん)、院号は普門院という真言宗智山派の寺院です。

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ところが、後白河天皇の側近の二人、信西(藤原通憲)と藤原信頼が対立します。とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことで、その抗争は深刻なものとなりました。広い門の正面に「弁天堂」

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崇徳上皇が寵愛した阿波内侍は屋敷を寺院(現在の祇園歌舞練場付近)に改め、弁財天を祀りました。明治時代の廃仏毀釈によりその寺院は廃寺となり、弁財天がここに遷されたました。都七福神の弁財天です。

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平安時代末平忠盛がこの地域(六波羅)の土地を購入し、平清盛ら平家一門の屋敷が建てられ、六波羅殿と呼ばれました。最盛期には五千以上の建物が並び、平家による政治の中心地になりました。石標には「此附近 平氏六波羅第、六波羅探題址」

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1158年信西と美福門院の協議により後白河天皇は守仁親王(二条天皇)に譲位。守仁親王は後白河の父・鳥羽上皇が寵愛し美福門院の子です。ここに、後白河院政派と二条親政派の対立も生まれました。

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一方、保元の乱に勝利した武家も対立します。平氏は総領の平清盛はじめ多くの武将が手厚く恩賞にあずかりましたが、源氏は総領の源義朝が左馬頭の役職を得ただけでした。「本堂」

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どちらも保元の乱後の処遇に不満があった藤原信頼と源義朝が結束しました。1159年12月平清盛らが熊野を詣でるために都を留守にします。12月9日未明、信頼に加勢した武将が後白河上皇の三条殿を襲い、上皇を内裏に幽閉しました。

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平安から鎌倉時代にわたっての約150年間、烏丸三条の東西に御所の「三条殿」がありました。西を三条西殿、東を三条東殿といい、三条東殿は後白河上皇の院御所となっていました。(烏丸三条から北を望む)

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熊野詣でから戻った平清盛はすぐさま反撃を開始、幽閉されている後白河上皇を助け出し、源義朝らを討伐する院宣(命令)をもらい、信頼・義朝を襲撃しました。「三条東殿跡」

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信頼は平清盛に捕らえられ六条河原で処刑、源義朝は東国に逃げましたが、尾張で配下の武将に殺されてしまいました。下は、渋谷街道にある浄土宗の「小松谷正林寺」。平家の武将・平重盛(1138-1179)の別邸・小松殿があった場所です。

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重盛は清盛の長男で、保元・平治の乱で父を助けて戦功を上げ、左近衛大将、正二位内大臣にまで出世しました。平氏一門では最も後白河上皇に近く、清盛の後継者として期待されていましたが、先に病死してしまいました。

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先日記事にした「谷ヶ堂 最福寺開山 延朗上人旧跡地」 延朗上人は1130年源義家より4代目の子孫・源義実として生まれました。15歳で出家、延暦寺や園城寺で修業の後、この地にあった「松尾山寺」に住しました。

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平治の乱で、延朗は源氏の縁者として追われ諸国遍歴の旅に出て、松尾山寺は焼失しました。1176年、京に戻った延朗は跡地に最福寺を創建、住民の救済に努め、松尾の上人として敬愛されました。

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六波羅蜜寺の本堂には本尊として空也上人作の「十一面観世音菩薩立像」(国宝、秘仏)が安置されています。

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宝物館に安置されている僧形の「平清盛坐像」(重文)は、一門の武運を祈願して朱の中に血を点じて写経した頃の太政大臣浄海入道清盛の像です。

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時代祭の「平安時代婦人列」  後ろは「常盤御前」源義朝の后で、平治の乱で謀反人となった義朝亡き後、三児を連れて六波羅探題へ出頭するところです。幼い牛若はまだ赤ん坊のようです

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常盤は子供たちが殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願します。常盤の哀願とその美しさに心を動かされた清盛は今若、乙若、牛若を助命したとされます。しかし、この助命によって後に平家が滅ぼされることになります。

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御香宮神社の摂社「弁天社」 中根金作の作庭の弁天池の島に社殿があります。池に架かる石橋は四つの長石からなり、「常盤井の井筒」といわれます。 平治の乱の後、常盤御前は義朝との間に生まれた牛若ら3人の幼子を連れて都落ちしました。

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大和街道南の伏見の叔母を訪れますが災禍を恐れて追い払われます。隣家の女が同情して家に迎え入れ、一行は家の井水を使い身を清めたといいます。後に井筒が御香宮神社に寄進されました。

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東大路仁王門付近にある「西方寺」は、山号を願海山、院号を法性覚院という浄土宗知恩院派の寺院です。1189年に左大臣・大炊御門経宗が没し、一条町尻(一条新町)にあった屋敷に西方寺が創建されました。

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経宗は藤原経実(つねざね)の4男で1149年参議になり、二条天皇の伯父として天皇親政を推進しました。平治の乱では、当初は藤原信頼につき、後に信頼の討伐に加わりました。

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1160年後白河上皇により解官され阿波に流されましたが、後に左大臣に復帰。有職故実に通じ和歌にも優れ、晩年は法然に帰依しました。(本堂には本尊・阿弥陀如来を祀ります。)

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本堂の横に「平清盛墓」があります。各地で源氏が挙兵する中、清盛は新たな政治体制を敷きこれを迎え撃つ準備をしていましたが、1181年熱病に倒れ死去しました。『平家物語』では「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言したとされます。

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コメント

天皇家絡みの争いはいつも泥沼ですよね。
今、争いは無くても泥沼なのは、ある意味同じなのかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2021年7月11日 (日) 12:43

★munixyuさん こんばんは♪
この時代は天皇に政治権力があったので、周囲を巻き込んで深刻な事態になったようですね。后が何人もいたので、有力貴族出身の母違いの子供同士が争うことにもなりました。

投稿: りせ | 2021年7月13日 (火) 00:32

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