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2021年7月29日 (木)

熊谷直実と黒谷の蓮

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は金戒光明寺を始めとして京都に残る熊谷直実の足跡をたどります。熊谷直実(1141-1207)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)に生まれました。

幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われました。保元の乱(1156)では源義朝のもとで、平治の乱(1159)では源義平のもとで働きました。上は金戒光明寺(黒谷)の西門、下は山門。
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その後、久下直光の代理人として京都に上り、自立を決意し平知盛に仕えます。大庭景親に従って東国に下り、石橋山の戦い(1180)までは平家側に属していました。

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その後、挙兵した源頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立てて熊谷郷の支配権を安堵されました。塔頭の「常光院」

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1184年2月一ノ谷の戦いに参陣、源義経の奇襲部隊に所属して鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人で平家の陣に一番乗りで突入するも平家の武者に囲まれ、3人は討死しかけました。(蓮池と極楽橋)

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平家方の兵は友軍の軍船に逃れましたが、熊谷直実は遠浅の海に馬を乗り入れた武将を呼び返し、格闘して組敷いて首級をあげようと見ると、息子の直家と同年輩の美少年、平敦盛でした。

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直実はその日の未明、敵の矢に傷つき「この矢を抜いてくれ」という直家の手当もできず敵陣で奮闘していました。そのときの親心の切なさを思い起こし助けようと名を尋ねます。

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しかし敦盛は「名乗らずともすみやかに首を取って人に尋ねよ」というので、涙ながらに首を切ったといわれます。この池は「兜之池」ともいい、敦盛を討ち取った直実が殺生の無常を悟り、出家を決意して兜を置いた場所とされています。

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円山公園の東の「安養寺」は延暦年間(728-806)に桓武天皇の勅命によって最澄が創建しました。平安時代後期に寺を再興した慈円の援助を受けて、法然が1175年にこの地に吉水草庵を建て浄土宗の教えを広め始めました。

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直実は噂を聞いて救いを求めて法然を訪ねました。心の安らぎを得るには切腹するか手足の一本も切り落とすしかないと思い込んで、門前で刀を研ぎ始めたといいます。

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驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は死後いかにして往生できるかをたずねます。法然は「罪の軽重によらず、念仏を唱えることでしか往生できない」と答えると直実は号泣したといいます。(金戒光明寺に戻り石段を登ります。)

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直実は法然を師として出家して法力坊蓮生(れんせい)と改名、この地に草庵を結びました。石段を登った右に「熊谷堂」があり、何度も再興を繰り返し近代(1943年)に再建されました。ここからさらに石段を登ると法然廟があります。

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法然廟(左)の前に二つの五輪塔があります。左は熊谷直実、右手前が平敦盛の供養塔です。

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大方丈と御影堂の間に「熊谷直実鎧掛けの松」があります。初代、二代とこの伝説を継承してきましたが、平成25年(2013)に枯れてしまい翌年新たに植えられました。

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平安時代後期の1186年、法然は大原の勝林院に招かれ宗論「大原問答」に臨みました。随行していた蓮生は、問答に集まる聴衆に法然を襲撃するような過激な僧徒がいるかも知れないと考え、帯に鉈(短刀)を忍ばせていました。

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蓮生の気性を知っていた法然がそれを咎め、持っていた鉈を上の藪に捨てさせたといわれています。 勝林院の前に法然が休んだとされる「法然腰掛石」。真偽は分かりませんが、今から宗論に向かう法然一行の緊張感が伝わってきます。  

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大原問答では法然の専修念仏が他派を論破、本尊の阿弥陀如来は手から光を放ちその証拠を示したとされます。

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1195年蓮生は京から鎌倉へ下り東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。1197年京都に戻り法然を開山として仰ぎ法然寺(下)を建立しました。当初は錦小路東洞院西の父貞直の旧地にありましたが、現在は嵯峨天竜寺立石町に移転。

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長岡京市にある「光明寺」は山号を報国山、院号を念仏三昧院という西山浄土宗総本山です。「金戒光明寺」に対して、こちらは「粟生(あお)光明寺」とも呼ばれます。

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法然24歳の時、奈良に師を求めて叡山を降りて、この里で一夜の宿を借りました。20年後の1175年浄土宗を開いた上人は、ここで初めて念仏の教えを説きました。そのため、この地は法然上人の立教開宗の地とされます。

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その後の蓮生は喧噪の地を離れて静かに念仏を称えられる場所を求めて、1198年法然ゆかり粟生広谷に寺を建てました。蓮生は法然を開山第1世と仰ぎ、自らは2世となりました。法然からは「念仏三昧院」の寺号を頂き、これが光明寺の始まりです。

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その後、本領の熊谷郷に帰った蓮生は庵(後の熊谷寺)で念仏三昧の生活を送り、1204年上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓う「蓮生誓願状」をしたためました(清涼寺が所蔵)。

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1206年8月蓮生は翌年の2月8日に極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てるも果たせず、再び高札を立て1207年9月27日に実際に往生したといわれています。(金戒光明寺の石段から)

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蓮生の遺骨は遺言により粟生光明寺に葬られました。御影堂と阿弥陀堂の間の石段の上に法然上人の御本廟があり、その傍に蓮生の墓があるそうです(近づけません)。

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ところで、清凉寺が所蔵する『源空(法然)、証空自筆消息』という書簡は、法然から源智に授与された「南無阿弥陀仏」の金字の六字名号を蓮生が力づくで奪い、その六字名号を返還するよう蓮生に諭す内容です。(清凉寺の阿弥陀堂)

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その真偽が不明でしたが、1962年興禅寺(大阪府泉南郡)の木造阿弥陀如来像(鎌倉前期)の胎内から如来像造立の結縁文書が発見され、その裏に法然や證空等の自筆消息が書かれていました。(清凉寺の霊宝館)

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それまで不詳だった法然の筆跡が明らかになったことは歴史上重要で、 古くから知られていた清凉寺の書簡も真跡であると認められ双方が重要文化財に指定されました。また、蓮生の行動も事実だったと確認されました。

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コメント

敵の首を取るのも、
ただ嬉しいだけではないのですね。
複雑なことなのですね。

投稿: munixyu | 2021年7月29日 (木) 13:24

★munixyuさん こんばんは♪
熊谷直実という人は、主家しても素朴で血の気が多かったようですね。

投稿: りせ | 2021年8月 7日 (土) 01:11

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