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2021年7月27日 (火)

京都相撲と本妙寺・その他

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

東大路通から仁王門通を東に行くと左(北)に本妙寺があります。今日は、この寺を始めとして「京都相撲」ゆかりの地を訪ね、現在の「大相撲」に至る相撲の歴史を紹介します。

「本妙寺」は山号を祥光山(しょうこうざん)という日蓮宗妙覚寺派の寺で、赤穂義士の寺ともよばれています。最初に、この寺の歴史と赤穂義士との関係を簡単に紹介します。  

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安土桃山時代の1574年、日蓮宗妙覚寺20世・日典が新烏丸丸太町に創建したのが始まりとされます。江戸時代の1708年、宝永の大火により焼失して、1728年に現在地に移りました。

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現在の本堂は本妙寺6世・日迢、7世・日正らにより再建されたものです。本堂には本尊・題目釈迦多宝仏を安置しています。

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1703年の赤穂浪士切腹の後、京呉服商・綿屋善右衛門は四十七士のうち吉田兼亮(忠左衛門)、その子・兼貞(澤右衛門)、その弟・貝賀友信(弥左衛門)の三名、および、翌年病死した友信の妻・おさんの遺髪を得て、石碑に納め合祀供養しました。

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綿屋善右衛門は吉田兼貞の叔父にあたり、赤穂藩の出入り商人でした。1701年の赤穂藩取りつぶしの後は浪士を支援し、友信、妻・おさん、娘・お百を屋敷に住まわせました。(本堂の左手、境内の西に墓地があります。)

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昭和5年(1930)に友信の子孫が、大石内蔵助の書、遺品5点、遺墨70点あまりを当寺に寄贈し、その年建立された義士堂(宝物館)に納められました。(墓地への道の途中)

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4名の合祀石碑は損傷が激しいので義士堂に移され、墓地には新たに復元された碑が立てられています。寛延元年(1748)に初めて上演された『仮名手本忠臣蔵』では商人「天川屋義平」が登場します。

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義平は大坂の商人・天野屋利兵衛善右衛門とされることがありますが、赤穂藩とは関係がない人物で、実際は善右衛門がモデルだともいわれています。(本堂の左手に義士堂があります。)

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義士堂の横に「矢ツ車留吉碑」と刻んだ大きな石碑があります。留吉は明治時代中頃に「京都相撲」で活躍した力士で、相撲頭取でもありました。頭取は現在の大相撲の年寄、あるいは親方に相当します。

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相撲の歴史は古く、奈良時代末の793年7月7日桓武天皇の時に相撲節会(天覧相撲)が行われ、宮廷での相撲節会が毎年の恒例となりました。833年には仁明天皇が「相撲節会の真の目的は武力鍛錬である」との勅命を下し、全国の力士を集めて競わせました。

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しかしながら、1174年高倉天皇のときの相撲節会の後、源平合戦が起こり、400年近く続いた相撲節会は廃絶しました。(鐘楼)

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江戸時代になると、京都、大阪、江戸で「勧進相撲」が行われました。相撲の興行を行い、その収益の一部を神社仏閣の再建や修繕費用に充てるのが目的でした。京都では1645年糺の森(下)で行われた勧進相撲が最初です。

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出町柳の「光福寺」には、開山の宗心上人が故郷の宇津から持ってきた「宇津の井戸」の石組みがあります。井戸の奥に、正保2年(1645)、宗心から4代目の住職・宗圓上人が再建した鎮守社の八幡宮の玉垣が見えます。

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八幡宮再建にあたって、宗圓上人は資金を集めるために糺の森で勧進相撲を興行、見物人らの喜捨によって八幡宮が建てられました。喜捨とは、信仰に帰依して金品を献上する布施と違って、現在の入場料のようなものでした。

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勧進相撲は人気でしたがトラブルも多く、幕府は1648年勧進相撲禁止令を出しました。1680年代に江戸で禁止令が解かれ、京都で再開されたのは、1699年岡崎天王社(下の岡崎神社)の勧進相撲からです。そこで初めて番付が作られ、三役の名称が登場しました。

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吉祥院天満宮(下)は安土桃山時代には衰退、豊臣秀吉によって神領や法華八講料などが没収され、以後勅祭も廃止になりました。江戸時代中期に勧進相撲が許され、社殿が再建されました。

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営利目的の勧進相撲も始まり、京都二条河原(下)で毎年興行がされるようになりました。延享年間(1744-48)から年2回の定期的な興行となり、江戸、大坂、京都の三都(三ヶ津)で相撲興行が行われ、中でも京都が最も繁栄していました。

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その後、四季勧進相撲興行(大相撲)が定着して、毎年江戸で2回、京都、大阪で各1回勧進相撲が行われました。現在の大相撲のように力士の集団は各地を回りますが、それぞれの拠点(部屋)は三つの都市に分散していました。「祥光山荘」(玄関)

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後に大坂の商人の経済力を背景に大坂相撲が隆盛を極め、相撲の中心は大坂となり次いで京都となりました。その頃の江戸相撲は最も地位が低く、大坂や京都の力士が下って興行が行われていました。

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しかし、江戸相撲に次第に強豪力士が出始め、宝暦年間(1751-64)には年寄制度など組織や制度が確立していくと、京都相撲の地位は低下して、江戸と大阪の力士を迎えて合弁相撲という興行になりました。

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明治に入ると東京相撲は雲龍、不知火、陣幕、梅ヶ谷という強豪力士により隆盛を極めますが、大阪相撲は内紛などで徐々に衰退していきました。(渋谷坂の小松谷正林寺の境内に接して、喜運寺の山門があります。)

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より困難な京都相撲でしたが、明治初期には20人の頭取(親方)と部屋があり500人の力士が在籍していました。その中の力士・頭取・松ヶ枝政右衛門の墓が喜運寺の墓地(左奥)にあります。

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この時代の兜潟(かぶとがた)は京都相撲横綱、上方相撲頭取を務める一方、勤皇派の力士として禁裏の守護を申し出て(弟子の朝日形が力士隊を編成)、王政復古に貢献しました。六角通大宮の西にある善想寺に墓碑があります。

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兜潟は、伏見に生まれ、その人柄を広く愛され、孝明天皇から「兜潟、あぐらをかいて楽にするがよい」とのお言葉を受けた話が有名です。 東京や大阪に対して京都相撲が衰えゆく時代、兜潟はその再建に全力を注ぎました(向うが墓地)。

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明治中頃のより困難な状況の京都相撲に大碇紋太郎が登場します。大碇は東京相撲の大関(最高位)で押しが強い評判でしたが、成績が落ちて関脇に陥落して脱退、京都相撲に加わり大関、後に京都相撲最後の横綱となりました。

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明治43年(1910)ロンドンの日英博覧会に力士団を率いて相撲を披露。その後、大碇など一部がパリを振り出しにヨーロッパ各地、南米を巡業して歩き、京都に戻ったのは3年3か月後でした。先の矢ツ車留吉はこの時代の人です。

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昭和2年(1927)東京相撲協会と大阪相撲協会が解散して大日本相撲協会が発足、本場所は東京と大阪で交互に2ずつ開催ました。戦後になって日本相撲協会と改称、現在の「大相撲」の形態が整備されてきました。

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京都相撲から東京相撲(江戸相撲)に加わり名を残した力士も多く、第16代横綱西ノ海、第28代横綱大錦、双葉山の師匠の緑嶌(のち立浪親方)、関脇響舛などがいます。

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京都相撲の幕内國ヶ岩は大碇の渡英後、京都相撲最後の大関となり大正3年(1914)東京相撲に加入、幕内、十両と取り、大正8年(1919)引退し、年寄稲川となりました(現在は出羽海部屋出身の普天王水が継承)。

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本場所以外の地方巡業は勧進元(主催者)を募集して行われています。京都市主催の「京都場所」(10月)は、新型コロナのために昨年と今年は中止となりました。

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