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2021年7月15日 (木)

隠元禅師と黄檗山・萬福寺

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は黄檗宗と萬福寺を開いた隠元禅師の生涯をたどりながら、今頃の過去記事を再編集して萬福寺の境内を見て歩きます。

中国からの渡来僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)は、幕府から寺領地を得て新寺の候補地を探すため、淀川を遡り宇治川の「隠元橋」付近で下船したといいます。橋の東に「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」の石碑が建っています。

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黄檗山・萬福寺は江戸時代の寛文元年(1661)隠元禅師によって開創。「総門」(重文)の屋根の中央が高く2段になっているのは中国風で(TOPの写真)、上に乗っているのは摩伽羅(まから)という想像上の生物、額「第一義」(重文)は5代・高泉の書。

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隠元は、1592年中国福建省福州府福清県の村で、父・徳竜の3人兄弟の末っ子として生まれました。6歳の時、父が湖南・湖北方面におもむいた後、消息不明となりました。「三門」(重文)延宝6年(1678)建立の三間三戸の二重門。

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10歳で仏教に志すも、母は出家を許しません。21歳で消息不明の父を浙江に捜しましたが果たせず、23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとで1年間奉仕しました。(萬福寺は中央の一直線上に主要な伽藍が並んでいます。)

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29歳になり、ようやく福清県の古刹・黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度。33歳、金粟山広慧寺の密雲円悟に参禅、萬福寺に晋山する密雲に随行しました。(道の両脇には蓮の鉢が並べられています。)

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38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継がせて退山、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠の法を継ぎました。法を継ぐとは、師の教えの正当な継承者と見なされることです。「天王殿」(重文)寛文8年(1668)の建立。

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その後、萬福寺を出て獅子巌で修行していましたが、費隠が退席した後の黄檗山から招請され、1637年から7年間住持をつとめました。(天王殿の前に、隠元がもたらした隠元豆が白い花を咲かせていました。)

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退席した後、明末清初(明から清へ)の動乱が福建省にも及ぶ中、1646年再び求められて黄檗山に晋山、渡日するまでの9年間住持をつとめました。「隠元隆琦像」(重文)1671年喜多元規筆、萬福寺蔵 紙本着色

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江戸時代初期、長崎の唐人寺・崇福寺の住持に空席が生じ、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請しました。既に63歳の隠元は弟子の也嬾性圭を派遣するも、途中で船が座礁して亡くなってしまいました。

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天王殿の中央に片膝を立てた布袋座像が祀られています。布袋は弥勒菩薩の化身とされ、萬福寺では弥勒菩薩像と呼んでいるそうです。布袋は参拝する人の口から煩悩を吸い込み、最後に参拝するとき袋から徳を取りだして授けるのだそうです。

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隠元はやむなく自ら良静・良健ら20人ほどの弟子を率いて、承応3年(1654)7月5日夜に長崎へ来港、当初は興福寺に滞在しました。(布袋の周囲を四天王が囲んでいます。「増長天」)

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「持国天」 布袋と四天王、下の韋駄天の像は明の仏師・范道生(はんどうせい)の作です。道生は隠元に招かれ萬福寺で造仏をしました。明時代末の写実的な彫刻様式(黄檗様)の作風や木寄技法などは、唐様として日本の仏師に引き継がれました。

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隠元が滞在した興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う見識を持った僧や学者たちが集まり、僧俗数千ともいわれる活況を呈しました。(布袋像の後ろに伽藍を守る護法神「韋駄天像」)

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明暦元年(1655)崇福寺に移り、同年、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山。「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」は寛文8年(1668)建立、日本の本堂や金堂にあたります。

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しかし、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限されました。(正面に香炉があり、いい香りの中華線香がたかれていました。)

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中央は本尊の釈迦三尊像。脇侍は阿難(左)と迦葉(右)で、釈迦が亡くなったあと、長老の彼らが教えを受け継いだとされます。三尊像は范道生の指導のもと、京の大仏師兵部が1669年に制作したものです。

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本尊両側には范道生が制作した十八羅漢像を安置しています。釈迦の命によって、教えを説き民を導く悟りを開いた弟子たち(十六羅漢)に、慶友と賓頭廬(びんずる)を加えたものです。

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この羅鑑像は写実的でそれぞれの個性や表情が生き生きと表現されています。片側に九体ずつあったはずですが、数体が写真だけ飾っていました。修復作業中なのかも知れません、

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隠元の渡日は、当初3年間の約束で、本国からの再三の帰国要請もあって隠元は帰国を決意しますが、龍渓らが引き止め工作に奔走しました。(後ろに隠元禅師像がありますが、新しいようで詳しいことは不明です。)

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万治元年(1658)には、江戸幕府4代将軍・徳川家綱と会見。その結果、万治3年(1660)山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年新寺を開創、故郷と同名の黄檗山萬福寺と名付けました。「法堂」大雄宝殿の後にあり、寛文2年(1662)建立。

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隠元禅師が開いた黄檗宗(黄檗禅)は、当時乱れを生じていた禅宗各派の宗統・規矩の更正に、隠元の厳格な戒律『黄檗清規』は大きな影響を与え、その改革の原動力となりました。法堂に行く回廊の途中から、向こうの建物は「慈光堂」(祀堂)。

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特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では直接の手本とされました。(法堂の両側の東方丈、西方丈は重要文化財、その背後に住職が居住する「甘露堂」があります。)

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当時の中国の文化や文物を伝え、煎茶道の開祖、能書家として木庵性瑫、即非如一とともに「黄檗の三筆」と称されました。(法堂の後ろに徳川歴代将軍を祀る「威徳殿」があります。)

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隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依しました。萬福寺の住職は3年間で、寛文4年(1664)9月後席を弟子の木庵性瑫に移譲しました。(卍崩しの高欄、向こうは大雄宝殿。)

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松隠堂に退隠、寛文13年(1673)3月体調が衰え、4月2日後水尾法皇から「大光普照国師」号を贈られ、翌3日示寂。世寿82歳。(慈光堂の前から、対称の位置にある「双鶴亭」、その後ろに寺務所や普茶料理の黄龍閣などがあります。)

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以後、50年ごとの大遠忌に皇室より諡号を賜わることが慣例となり、享保7年(1722)霊元上皇より「仏慈広鑑国師」、明和9年(1772)後桜町上皇より「径山首出国師」、文政5年(1822)光格上皇より「覚性円明国師」、

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仏教排除政策下の明治4年(1872)を除いて、大正6年(1917)大正天皇より「真空大師」、昭和47年(1972)昭和天皇より「華光大師」が贈られました。来年「350年大遠諱」を迎え、萬福寺では様々な行事を計画、黄檗禅の志を新たにしているそうです。

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コメント

昔は船の座礁がとにかく怖いことでしたよね。
今ではほとんど考えられない事です。
そう思うと、いい時代になったものですよね。

投稿: munixyu | 2021年7月15日 (木) 18:09

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