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2021年7月 8日 (木)

晴明神社と安倍晴明の真実

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は今頃の晴明神社の過去記事を再編集して安倍晴明の実像に迫ります。よく知られている晴明伝説は後世の書物によるものなので、同時代の資料に現れる晴明を紹介します。

晴明神社は、平安時代中期の寛弘4年(1007)一条天皇の命により創建されました。晴明の偉業を讃えその霊を鎮めるため、晴明の屋敷跡である現在地に社殿が設けられました。一の鳥居に「晴明桔梗」の額がかかっています。

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創建時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものでした。(「旧・一條戻橋」平成7年に架け替えられ、先代の橋で使われていた欄干の親柱を境内に移し、昔の風情を再現しています。)

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ところが、応仁の乱の後は度重なる戦火や豊臣秀吉による都市改造によって規模は縮少、古書、宝物なども散逸、社殿も荒れたままの時代が続きました。(「式神石像」晴明が使う精霊を妻が嫌がるので、橋の下に隠したとされます。)

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近代になって、式年祭の度に氏子が中心となって神社の整備・改修が行われ、昭和25年(1950)には、多年の宿望であった堀川通に面するように境内地が拡張されるなど復興が進められました。

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安倍晴明は、延喜21年(921)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされますが、奈良県桜井市安倍とする伝承もあります。晴明の幼少期の確かな記録はなく、親のコネで陰陽師の賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたといいます。

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この頃は賀茂氏の門下生で、後に両家は二大陰陽道宗家となります。天暦2年(948)大舎人(宮中の雑事に従事した下級役人)となりました。{塀重門の「四神門」の石柱の上には、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神が掲げられています。)

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天徳4年(960)天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生)となりました。この頃、村上天皇に占いを命ぜられ、その才能は既に認められていたようです。「手水舎」

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「晴明井」手水舎の右に晴明が念力により湧出させたという井戸があります。湧き出す水は現在でも飲め、病気平癒のご利益があるとか。水の湧き出るところは、その年の恵方を向いていて、立春の日に向きを変えるのだそうです。

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井戸の前に石で北斗七星が描かれています。陰陽道で用いられる「反閇(へんばい)」と言われる呪術的歩行のうち、地霊や邪気を祓い鎮めるため北斗七星の形に足を運ぶ歩行法を兎歩(うほ)と呼ぶそうです。

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天徳4年の内裏火災で百済から献じられた二振りの霊剣が焼損。陰陽寮に複製の鋳造が命じられ、保憲と晴明が抜擢されました。霊剣には道教の思想にもとづいて、太陽や月、星座、皇帝や神々、呪符などが記されており彼らが適任とされました。

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剣に霊威を込めるための道教の祭祀「五帝祭」の執行役に保憲、補佐として晴明が任命されました。これが、天文得業生の晴明が活躍した最初の記録です。現在の本殿は明治38年(1905)に建てられました。

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祭神の安倍晴明は、生前より、天皇から貴族、庶民に至るまで、その悩みや苦しみを取り払うことで大きな信頼を得ていました。神様として祀られた現在も、魔除け、厄除けのご利益があると信仰されています。

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この功労によって翌応和元年(961)6月以降に晴明は陰陽師(官職、定員6名)に任じられ、天禄元年(970)陰陽少属に昇進、翌2年には51歳で天文博士の兼任が認めらました。 「厄除桃」

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貞元2年(977)保憲が没した頃から陰陽寮内で頭角を現し、陰陽頭に就任することはありませんでしたが、位階はそれよりも上位に昇りました。末社の「齋(いつき)稲荷社」この名はかって齋院にあったことに由来します。

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安倍晴明の活躍は『今昔物語集』(1120年以降-12世紀前半)、『宇治拾遺物語』(鎌倉前期)、『源平盛衰記』(鎌倉後期)などの説話集や軍記物語に記されていますが、いずれも没後100年以上でフィクションと考えられます。


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一方、朝廷の記録や同時代の公家の日記は、それなりの事実があったと考えられます。天元2年(979)晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行いました。齢推定300年の楠のご神木。

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このころから花山天皇の信頼を受けたようで、記録からしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られます。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになります。

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「安倍晴明像」当神社が所蔵する安倍晴明の肖像画を元に作成されました。晴明が、衣の下で印を結び、夜空の星を見て遠く天体を観測している様子をあらわしています。

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藤原実資(さねすけ、957-1046)は有職故実に精通した当代一流の学識人で、藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通しながら最終的に従一位・右大臣に昇った公卿です。その日記『小右記』は当時の貴重な歴史資料です。

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小右記には晴明が16回登場し、寛和元年(985)4月19日実資の女房の出産時期がきているのに一向にその気配がないため、晴明が「解除」を行ったとあります。 晴明像の下に「桔梗苑」

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永延元年(987)3月21日晴明に反閉(上述)の術を行わせたとあります。翌年8月5日凶星のけい惑星が通常の軌道を逸脱するという天文の異変が起こり、祈祷を命じられた天台座主の尋禅は早速祈祷に従事しましたが、

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晴明はすぐに取り掛からなかったために、18日に始末書を提出させられたと書かれています。正暦4年(993)2月3日晴明が藤原実資の屋敷に昇進したことを報告に来ました。(南の塀に代表的な10の逸話が紹介されています。)

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実資が理由を問いただすと「一条天皇がにわかにご病気になられ、宮中からの指示で身を清めて奉仕すると、すぐにその効果があらわれ一つ位階を上げていただきました」と説明したそうです。(社務所の前には桔梗が咲いていました。) 

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藤原道長(966-1027)の『御堂関白記』は、権力者でありながら几帳面で率直な性格から、重要な歴史資料(国宝)です。晴明が11回登場し、長保2年(1000)2月16日行幸のお達しがあり、晴明がその日時を占い来月の14日がよいと奏上しました。

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寛弘元年(1004)7月14日藤原実成から聞いた話として、深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことが記されています。

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同時代の資料は、晴明が目の前で奇跡を起こしたのではなく、祈祷をした、人伝えに聞いた天候や病気の快復など、あり得る話ばかりです。しかし、人々に信頼され頼られていたことは確かなようです。

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紫式部が道真の計らいで宮廷へ出仕したのが寛弘2年(1005)12月29日頃で、この年の9月に晴明は85歳で没しています。一方、清少納言はもっと若く、晴明の行動を見聞きしていた可能性があります。

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『枕草子』には「陰陽師のもとなる小童こそいみじう物は知りたれ」で始まる文章があり、(陰陽師の祈祷よりお供に興味があったらしく)私のそばにもこんな賢そうな子がいたらよいのにと書いています。

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晴明は、晩年に主計権助に転身、播磨守などの官職を歴任しました。二人の息子が天文博士や陰陽助に任ぜられ、安倍氏は師であった賀茂氏と同列の陰陽道の宗家となりました。 清少納言が見た賢そうな子は、息子の一人だったと思われます。

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