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2021年6月 8日 (火)

大田垣連月と神光院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在外出自粛中で、今までの記事の人物や歴史、物事を少し掘り下げてお届けしています。今日は大田垣蓮月に焦点を当て、その終焉の地・西賀茂神光院を見て回ります。

「神光院(じんこういん)」山号を放光山(ほうこうざん)という真言宗の単立寺院で、「西賀茂の弘法さん」、「上の弘法さん」、「厄除けお大師さん」などといわれ、東寺、仁和寺と並んで「京都三弘法」のひとつです。

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飛鳥時代の推古天皇(在位593-628)の代、上賀茂神社の社地だったこのあたりに「瓦屋寺」が建立されました。近くには西賀茂瓦窯があり、寺は御所に奉納する瓦職人の宿坊になっていました。(左は玄関、向うは庫裏。)

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平安時代初めの811年、42歳の空海が瓦屋寺で90日間厄除け修業を行いました。寺を去る時、愛染明王像、および、上賀茂神社の懇望により自像を刻み安置したとされます。「本堂」

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鎌倉時代前期の1217年、上賀茂神社の神主・松下能久(よしひさ)が神託を受け、瓦屋寺の跡地に建てたのが神光院の始まりとされます。寺号は「神の光が照らした地」から、開山には大和三輪の慶円(1140-1223)を招きました。(本堂の前に池があります。)

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本尊は42歳の「弘法大師像」で、厄除(やくよけ)大師の名で知られています。空海が刻んだ像は焼失して、現在のものは室町時代作とされます。厄除け、眼病封じのご利益があるといわれています。

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本堂の横の「きゅうり塚」 土用丑の日のきゅうり封じは、空海がきゅうりに病魔を封じ込め、五智不動尊に病魔平癒を祈願したことに始まります。きゅうりで身体の悪いところを撫でて庭などに埋め、腐って大地に溶け込むと病が平癒するとか。

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江戸時代の天保年間(1830-1843)の火災により焼失、明治初年(1868)の神仏分離令後の廃仏毀釈の際、上賀茂神社神宮寺の本尊を当院に遷したといわれています。その後の明治3年(1871)には廃寺になりかかり、「不動明王堂」

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同10年(1878)真言宗の僧・和田智満(月心)が再興しました。幕末の慶応2年(1866)歌人・陶芸家の大田垣蓮月(1791-1875)が当院に移り住みました。

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誠(のぶ、後の蓮月)は京都の遊郭三本木(河原町通丸太町東入ル)で生まれ、実父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖です。生後10日で知恩院に勤仕する寺侍の大田垣光古(てるひさ)の養女に出されました。 「手水舎」

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同年8月に大田垣光古は知恩院の譜代に任じられ、門跡の坊官として世襲が許される身分となりました。太田垣氏は室町時代に因幡・但馬で栄えた山名氏の重臣の子孫です。(「蓮月尼舊栖之茶所」蓮月が住まいした茶所「蓮月庵」の跡です。)

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生母は誠を出産して後、丹波亀山藩の藩士の妻となりました。この生母の結婚が縁で、誠は寛政10年(1798)頃から丹波亀山城に御殿奉公を勤め、10年ほど亀山(亀岡)で暮らしました。 (左が現在の蓮月庵。)

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大田垣蓮月尼の歌碑「ただならぬ枕の草に虫鳴ひて秋あはれなるわが庵かな、暮れぬとて帰る家路もそこはかと夏草しげし西賀茂の里、願くはのちの蓮(はちす)の花の上へに曇らぬ月を見るよしもがな(辞世)」 撰文は富岡鉄斎。*若き日の富岡鉄斎は学僕として蓮月を助け、蓮月も終生鉄斎を援助しました。

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養父の光古の実子のうち4人は誠が養女になる前に亡くなり、唯一成人まで成長した末子の仙之助も誠が亀山に奉公していた時期に病死。そのため光古は但馬国城崎の庄屋銀右衛門の四男を養子に迎え望古(もちひさ)と名乗らせました。

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誠は、亀山での奉公を終えた文化4年(1807)ごろに望古と結婚、長男、長女、次女が生まれましたが、いずれも幼くして亡くなりました。さらに文化12年(1815)夫の望古も亡くなり、誠は25歳にして寡婦となりました。(山門の横にもう一つの池があります。)

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4年後の文政2年(1819)誠は新たに大田垣家の養子となった古肥(ひさとし)と再婚、一女が生まれましたが、文政6年(1823)古肥と死別。その死後、誠と養父・光古は剃髪して仏門に入り、誠は蓮月、光古は西心と号しました。「鎮守社」

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二人が出家した年、大田垣家は再び彦根藩より養子を迎えて知恩院の譜代を継承させました。その頃、西心は知恩院内の真葛庵の守役を命じられ、蓮月親子と共に庵に移りました。(外に出ます。)

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しかしこの生活は長くは続かず、2年後には古肥との間の女児が、その7年後(1832)には養父西心までが亡くなってしまいました。 養父の死を機に、蓮月は生まれ育った知恩院を去って、岡崎村(現在の京都市左京区)に移りました。(近くの浄土宗・西芳寺)

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岡崎で自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は「蓮月焼」と呼ばれ、京土産として人気を博し、後に贋作が出回るほどでした。蓮月は幼い頃から和歌に親しみ、上田秋成や香川景樹に学び、六人部是香や小沢蘆庵にも私淑していました。

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その後の蓮月は聖護院や北白川など転居を30回以上繰り返し「屋越し蓮月」と呼ばれたそうです。その理由は美貌のため言い寄る男から、あるいは勤皇志士と交流があり幕吏から逃れるためともいわれました。

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京都大学病院構内の2000年度までの発掘調査で、土瓶・急須・徳利・鉢・蓋物など多数の蓮月焼が出土しました。東大路と近衛通の北西角で、蓮月の聖護院村の住居跡と考えられている場所です。(同遺跡調査研究年報、千葉豊、2001、311-326)

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蓮月は粟田口あるいは清水五条の窯に焼きを依頼しています。出土した場所は住居裏で、蓮月が焼き上がったものから不良品を廃棄したと考えられるそうです。

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西方寺と蓮月との縁は不明ですが、上の「故蓮月尼紀念碑」の碑文には蓮月の生涯とともにもう一つの辞世の歌(最後にあります)が刻まれています。(西芳寺を出て、山裾にある墓地に向かいます。)

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連月は76歳から神光院の蓮月庵に移り住みました。蓮月焼のため金銭には不自由がなく、京都でたびたび起こった飢饉には多額の寄付をし、自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動にも尽力しました。「西賀茂小谷墓地」

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85歳で亡くなり、この墓地に葬られました。ここには上賀茂神社の賀茂県主累代、「鉄道唱歌」の作曲者・多梅雄、美食家・陶芸家の北大路魯山人などの立派な墓が並んでいますが、蓮月の墓は見過ごしそうな自然石です。

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「つゆちりも   心に懸かる雲もなし   今日を限りの夕暮の空」

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コメント

土用丑の日のきゅうり封じですか。
面白いですね。
効くのかどうかはわからなくても、
やってみたくなりますよね。

投稿: munixyu | 2021年6月 8日 (火) 14:40

★munixyuさん こんばんは♪
キュウリは水気があるところや、断面の模様などから霊力があると考えられたようです。

投稿: りせ | 2021年6月19日 (土) 00:27

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