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2021年6月10日 (木)

印空寺の創建の謎

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在外出自粛中で、過去の今頃の記事を再編集してお届けしています。今日は北嵯峨にある印空寺の創建の経緯について考えてみます。

一条山越えの交差点から西に行くと、すぐに印空寺があります。この道は「千代の古道」といって、平安貴族が北嵯峨に遊行した道といわれています。

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「印空寺」印空上人(‐1692)が美濃国(岐阜県)立政寺から入洛し、仁和寺第23世門跡・覚隆法親王からこの地を賜り、元禄元年(1688)に七堂伽藍を建立したのが始まりとされます。山門の右に「旧御室御所茶所」という石標があります。

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印空上人については没年しか分かっておらず、この地を霊元天皇第2皇子の覚隆法親王から賜った経緯も不明です。もしかしたら、当時の徳川幕府の宗教統制と関係があるのかもしれません。枯山水式石庭「二河白道」

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元和元年7月(1615)幕府は「真言宗諸法度」を真言宗諸本山・諸寺に対して出し、修行の徹底やその師の厳格な基準を設け、本山の権限強化を求めました。この制度で本山は財政的に安定しましたが、その間の対立をもたらしました。

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ここは真言宗の二つの総本山、仁和寺と大覚寺の中間で、勢力を拡大しようとしたのかも知れません。実際、石標の旧御室御所茶所は仁和寺門跡が外出する際、印空寺の前身の印空庵を休憩所として利用したことを示しているそうです。

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本尊の阿弥陀如来像は、地名から「山越の阿弥陀」といわれ、脇侍仏の観音・勢至両菩薩像は、昭和の名匠・松久朋琳師(1926-1992)の作品です。

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本堂西側の仏間に大黒天が安置されてます。かって宮中に祀られていたもので、明治4年(1871)の東京遷都の際に、その大きさと重さのために京都に残され、1世紀を経て当寺に遷されました。

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印空は4年後に没し、その後了海上人(1663-1719)が住持して再興、寺勢は盛んになりました。了海は武蔵国出身の浄土宗の僧で、江戸小石川伝通院や芝増上寺で修行、関東六老僧の一人の名僧といわれました。本堂西(左)には書院、

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後に上洛して紫野光念寺を経て、印空寺の住持となりました。その間、京都や大坂で説法を行い、施米をして人々を救済したと伝えられています。(書院の続きに庫裏があります。)

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明治維新(1868年)後の廃仏毀釈によって印空寺は荒廃の道をたどりましたが、昭和45年(1970)圓空瑞元上人が普山して寺の復興に努め、浄土宗開宗800年記念の昭和49年(1974)に鐘楼を建立しました。 

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平成3年(1991)には檀信徒の協力を得て本堂、山門、庫裏を一新するとともに境内の整備が行われました。鐘楼は山門を入って左にあり、梵鐘には天女が描かれていました。

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境内に、枯山水式石庭「二河白道」、北山老杉、梅、辛夷、桜、紅葉などを配し、歴史風土特別保存地区にふさわしい山容が整いました。前に「昨日を悔いず 明日を恐れず 今日を楽しい充実した一日にしましょう」という石碑があります。

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二河白道の向こうに「多羅葉樹」(たらようの木)の大木が見えます。高さ17m、樹齢は300年を超すといわれ、京都市の保存樹です。ここから本堂の右手(東)に行きます。

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本堂東の蹲踞(つくばい)にはちょっとした歴史があります。かって太秦広隆寺西に坂東妻三郎の屋敷がありました。その後の約30年の間、映画関係者が多く泊まる旅館に転用されましたが廃業、現在はマンションが建っているそうです。

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この鞍馬石・袈裟づくりの蹲踞はその屋敷にあったものが、旅館廃業時に当寺の檀家の家に移され、本堂新築時に寄進されたものです。

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さらに東に小さな古墳があり、坂道を上ると、

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頂上に開山の印空上人の墓があります。古墳の下には石碑がいくつかあります。

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相馬大(そうまだい)の「あやとり」という詩碑。相馬大(1926- 2011)は、立命館大学文学部卒、京都聖母女学院短期大学教授を務め、詩の他に京都の文化についての多くの随筆を残しています。

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宮崎信義(のぶよし)の歌碑「山が描けるか風や水が描けるかあと一日で春になる」。信義(1912- 2009)は京都の歌人で、口語自由律短歌(新短歌)の隆盛に努めました。

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庭園の東に石塔が並んでいます。

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石仏の横に先ほど見た多羅葉樹の木があります。この葉の裏を先が尖ったものでこすると樹液がしみ出して黒く変色するので、古代には写経や通信に用いられ、「葉書」の語源であるともいわれています。

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左が昭和の圓空上人、右が中興の祖・了海上人の墓です。現在、印空寺は西山浄土宗に属しています。

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了海上人は土地の人に親しまれ、「ねんねせん子は了海坊にかます 了海坊がこわけりゃ ちゃとねやれ」という子守歌が伝えられています。子供には怖いお坊さんだったようです。

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かえる(置物)発見!

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