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2021年6月12日 (土)

与謝野礼厳と本願寺北山別院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在外出自粛中で、今までの記事の人物や歴史、物事を少し掘り下げてお届けしています。今日はこの寺に滞在した僧侶で歌人でもある与謝野礼厳(れいごん、鉄幹の父)の生涯を紹介します。

詩仙堂や圓光寺から金福寺へ向かう途中に石碑「親鸞聖人御舊跡」があります(上)。ここは、聖水山養源寺という浄土宗西本願寺派の本山直属の寺院で「本願寺北山別院」とも呼ばれます。

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この寺は、かつて「元養源庵」という天台宗・比叡山延暦寺の末寺でした。親鸞(1173-1263)は、京都の日野(伏見区)に生まれ、幼くして両親を失い、8歳のとき叔父・日野範綱に引き取られました。「唐門」

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9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度して、元養源庵で1年余り修業。その後比叡山に登り、横川首楞厳院(しゅりょうごんいん)の堂僧として20年近く修行を続けました。(境内には浄土真宗系の「聖水保育園」があります。)

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1202年、親鸞29歳の時、比叡から六角堂の救世観音に百日間参籠し、師・源空(法然)の導きにより浄土教に帰依しました。しかし、1207年「承元の法難」で越後に流罪となりました。「本堂」

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1211年に赦免され、1214年妻子らとともに関東で布教。1224年に浄土真宗の教義を体系化した『教行信証』を著し、親鸞はその宗祖となりました。(本堂には阿弥陀如来を祀っています。)

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その後、寺は臨済宗・南禅寺派、さらに浄土宗・西山派に改宗したといわれます。江戸時代前期の1677年、一乗寺村の信徒の請願によって浄土真宗の寺として再興され、養源寺と名を改めました。

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さらに、1680年には西本願寺の別院となり現在に至ります。

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明治17年(1884)歌人でもある僧・与謝野礼厳が養源寺に留守居として入りました。礼厳(1823-1898)は丹後与謝郡温江村の細見儀右衛門の二男として生まれ、14歳のときに近くの浄福寺住職・与謝野礼道の養子となりました。

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しかし礼道が亡くなると、寺を出て本願寺の学林で得度した後、若狭の高浜村専能寺の娘と結婚、住職におさまりました。2児をもうけましたが、離婚して上洛。本堂の左に「大正天皇お手植えの松」があります。

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お手植えの松の前の細い道を行くと、親鸞の旧跡があります。親鸞が六角堂に参籠したとき、比叡山から、雲母(きらら)坂、一乗寺、北白川、出町、河原町通を通って六角堂に向かいました。

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往きはここで身を清め、帰りは休憩して草鞋の紐を締めなおして急な雲母坂に向かったといわれています。 その井戸水が「御聖水」として今なお湧いています(下の写真)。

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1857年礼厳は岡崎・本願寺掛所・願成寺に入り、この年山崎はつ枝と再婚しました。隣に「上宮太子影向(ようこう)石」があります。上宮太子は聖徳太子の別名で、親鸞は「和国の教主」として崇めていたといわれます。

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鉄幹の言葉から礼厳は願成寺の住職だと長い間信じられてきました。しかし、同志社女子大学の中皓教授の研究によると、願成寺は檀家が一つもなく、礼厳は本願寺から給料をもらう留守居僧の身分でした。 (保育園はお迎えの時間のようです。)

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この間、幕末には勤皇討幕運動に貢献、明治維新後は小学校開設の必要性を説き、僧侶としての夢だった貧困者を救う療病院や鉱泉場を開設しました。願成寺は明治11年(1878)廃寺となり、礼厳は一家をつれて薩摩へ布教活動に出かけました。

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薩摩の布教活動から戻った礼厳は北山別院に住む場所を与えられましたが、それも留守居僧の身分でした。歌人としての礼厳は、八木静修(せいしゅう)に歌を学び、歌号を「尚綱(しょうけい)」といい、大田垣蓮月、天田愚庵らと交友しました。

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鉄幹は岡崎時代に生まれた四男です。歌集の『礼厳法師歌集』は礼厳没後の13回忌に鉄幹が編纂したものです。鐘楼(旧本堂も)は明治初めに西本願寺21世明如の再建。

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歌集の前書きは、兄たちから「お前が選べ」といわれた鉄幹が、不平をいいながら父が残した3万首もの和歌を読むところから始まります。(梵鐘は室町時代の1544年中国・明で鋳造されたと伝えられ「春のまどろみを起こす」音色とか。)

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鉄幹は、晩年の「世を恨み、己の老いを嘆く」歌に心を打たれ、壮年期の歌を織り交ぜ630首を選出。「世にからく汐路ただよふ水母にもわれよく似たり住処なければ」、「老いぬれば傾く月を見るにさへ末長からぬわが身さびしも」

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礼厳は僧侶としては不遇でしたが、その歌は近世短歌への架け橋といわれ、斎藤茂吉はアララギ派よりも先に万葉的な歌を詠み、和歌から短歌への道筋をつけた一人と評価しています。

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この別院時代の歌も多く、そのうちの2首だけを。「しぐれてはわが山の井ぞ濁りけるやがて夕食(ゆふけ)に汲まんと思ふを」、「山を近みをりをり雉(きぎす)山鳥の羽音のどけき老が庵かな」。

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明治29年(1896)9月妻を亡くし、その冬に清閑寺に移り隠棲しました。「年を経て世にすてられし身の幸は人なき山の花を見るかな」、「うつせみの世に捨てられて山に入れば我より前(きき)に花ぞかをれる」

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