永井尚政と宇治・興聖寺
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現在外出自粛中で、過去の今頃の記事を再編集してお届けしています。題名にある永井尚政(なおまさ)は興聖寺を再建した淀藩主で、老中も務めた名君といわれています。
「興聖寺」は、山号を仏徳山(ぶっとくさん)、正式名称を観音導利興聖宝林禅寺という曹洞宗永平寺派の寺院です。恵心院から宇治川をしばらく遡ると、江戸時代の慶安年間(1648-1651)に建立された「表門」があります。
鎌倉時代前期の1227年、比叡山を下り宋で曹洞禅を学んだ道元(1200-1253)が帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後の1229年頃深草の安養院に閑居しました。「琴坂」桜や紅葉が美しい参道です。
安養院はかって深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院・極楽寺の跡で、現在の深草の宝塔寺付近にあったと推定されています。「山門」は、江戸時代の1844年に改築、楼上に釈迦三尊像と十六羅漢像を安置しています。
1233年、道元は深草に曹洞宗の道場を開創、当初は仏堂しかありませんでした。下は「藥医門」で、江戸時代後期の1846年に建立。
その後、法堂や僧堂などが寄進・建立されて伽藍が整備され、1236年に開堂式が行われ、観音導利院興聖宝林禅寺(興聖寺)と号しました。正面の法堂(本堂)は、江戸時代の1648年に伏見城遺構を移築したものです。
しかし、興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、1243年道元は波多野義重の勧めで越前に逃れ、後を弟子の詮慧(せんね)に託しました。(藥医門の右にある庫裏からお堂に上がり、本堂前庭の周囲を一周します。)
波多野義重は鎌倉時代の御家人で、承久の乱で矢を眼に受けて隻眼、越前地頭、六波羅標定衆を務め、道元の外護者でした。道元は越前に逃れた翌年、波多野義重の援助で大仏寺(後の永平寺)を開きました。
その後深草の興聖寺は荒廃し、住持4代で廃絶したといわれます。室町時代の応仁の乱(1467-1477)で伽藍も焼失してしまいました。(左の「大書院」、右の「方丈」に囲まれて美しい内庭があります。)
江戸時代前期の1649年、淀藩主の永井尚政が万安英種(ばんなんえいじゅ)を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが現在の興聖寺です。 
永井尚政(1587-1668)は、1584年の小牧・長久手の戦いで池田恒興を討ち取ったことで知られる武将・永井直勝の長男として駿河国に生まれました。(ここから法堂)
1600年の関ヶ原の戦いに従軍、1602年には徳川秀忠付の小姓となり、1605年任官して信濃守を称しました。( 法堂は伏見城の遺材で造られ、前縁は鴬張りの廊下、天井は伏見城落城の際の血染め縁板を用いています。)
信濃守は律令制の官位でしたが、江戸時代には任地と関係なく「守」という称号が用いられました。通常は3千石以上の旗本が口頭で老中に申し出て許可を得ました。新宿の「信濃町」は当時の尚政の下屋敷に由来します。
1614年大坂の陣にも参陣して功績を挙げ御小姓番頭に任じられ、その後も幕府への忠勤に励んで加増、1619年上総潤井戸1万5千石の大名に昇進しました。「開山堂(老梅庵)」江戸時代の1750年に塔頭・東禅院の大悲殿を移築。
このころ秀忠近侍の三臣といわれました。1622年宇都宮城釣天井事件で失脚した本多正純の後に老中に選任。1626年父・直勝が死去、家督と所領の下総古河8万9千石を相続。(開山堂は道元尊像を祀っています。)
1632年秀忠が死去すると、北条氏重や土井利勝らと増上寺に秀忠の廟を建立する監督官を務めました。翌年、老中職を解かれ山城淀藩10万石へ加増移封されました。開山堂の枯山水式の前庭。
「天竺殿」 平安時代後期小野篁作の等身大「聖観音立像」(宇治市指定文化財)が安置されています。中興開基の永井尚政、父・直勝、子・尚征、尚征の子・直円の各像を安置し、永井家の位牌も祀っています。
淀藩主のときは京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担いました。寛永の大飢饉(1640-43)では領民の救済にあたり、島原の乱が起こったときは京都の守備を命じられました。「永井尚政像」
この頃は上方八人衆の重鎮として畿内の幕政に当たりました。その後も、江戸城や禁裏の普請などで功績を挙げ、1644年に従四位下に昇りました。1658年致仕(ちじ、官職を退いて引退)、「大悲院」
後に入道(在家のまま出家)して信斎と号しました。1668年9月11日死去、享年82。墓はここ興聖寺にあります。(僧堂の横の回廊に「三面大黒天」が安置されています。)
永井尚政は茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、ゆかりの茶器も残っています。(法堂の反対側の回廊、左に珍しい六角堂の鎮守社があります。)
先日紹介した十三重石塔は江戸時代前期に永井尚政によって修理されました。現在の塔は1908年に再建、その際破損のため使用されなかった相輪と9重目笠石が尚政ゆかりの興聖寺の庭に移されました。
2017年9月3日、「永井尚政(信斎)公三百五十年遠忌 法要・追善茶会」が開かれました。「梵鐘」(宇治指定有形文化財)は、江戸時代1651年の鋳造で、「興聖の晩鐘」といわれています。
興聖寺・雨宮義幸住職による法要、宇治・上林記念館の上林英敏館長による薄茶席、小堀遠州研究家の深谷信子氏による講演会が催されました。上林英敏氏は尚政と親交があった茶師の直系の子孫です。
深谷信子氏は『永井尚政 数寄に通じた幕府の重鎮』を出版、文武両道の文化人大名・永井尚政の生涯を、小堀遠州、松花堂昭乗、江月和尚、片桐石州、林羅山、本阿弥光悦、狩野探幽など、豊かな文化的交友の中に描いています。 
「戦国武将追善茶会」と銘打たれ、歴史上多大な功績があるにもかかわらず、追善供養がなされていない戦国武将の法要を兼ねた茶会(第7回)でもありました。 「茶筅(ちゃせん)塚」

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