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2021年5月31日 (月)

宮本武蔵と八大神社・一乗寺下り松

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在外出自粛中で、今までの記事の人物や歴史、物事を少し掘り下げて紹介しています。題名の宮本武蔵は実在した剣豪で、以下ではできるだけ史実にもとづいてその人物像を探ります。

詩仙堂前の坂道の上にある「八大神社」は鎌倉時代の永仁2年(1294)に創建され、比叡山麓の七里のうちの一乗寺の産土神(うぶすながみ)、氏神として信仰されてきました。

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産土神はその者が産まれた土地の神で、他所にいっても一生守護するとされます。氏神は、その一族が祀った神でしたが、後にその土地に住む者を護る神を指すようになりました。(参道の坂を登ると社務所・授与所があります。)

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古くから八大神社は「北天王」(北の祇園)と称されて、皇居守護神十二社中の一つにもなっています。向うに御神木の巨木が見えます。左は樅(もみ)、右は杉。

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天王とはかっての祭神、牛頭天王(ごずてんのう)のことで、頗梨采女(はりさいじょ)と八王子もあわせて祀っていました。牛頭天王は疫病をおこす仏教の神、頗梨采女はその后、八王子はそれらから誕生した八神です。

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それらの祭神は、素盞嗚命(すさのをのみこと)、稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八王子命(はちおうじのみこと)と類似することから、昔から同一視(神仏習合)されてきました。素盞嗚命にも子の八神がいました。

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明治政府の神仏分離令および国家神道のもとで、祭神として仏教の神々を排除して素盞嗚命、稲田姫命、八王子命に改められました。

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禊祓い、農耕・水、森林・山、縁結び・和歌、方除・厄除、学業・教育と様々な御神徳があると信じられています。

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本殿の右に「七社」があります。右から、加茂大神社・柊大神社、赤山大神社・貴布禰大神社、春日大神社・新宮大神社、諏訪大神社・竈大神社、賢防大神社、八幡大神社、日吉大神社。

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七社の左に「皇大神宮社」、伊勢神宮の内宮の祭神・天照大神が祀られています。

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七社の右に「鷺森台神社」と「大将軍社」があります。

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江戸時代の剣客・宮本武蔵(1584-1645)が、吉岡一門との「一乗寺下り松の戦」の前に八大神社に立ち寄ったといわれています。左は宮本武蔵肖像(島田美術館蔵。熊本県指定文化財)

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武蔵の出生地は、武蔵自身が著した『五輪書』や養子の伊織が建立した『小倉碑文』によると播磨(兵庫県高砂市米田町)とされます。父は赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされていますが、異説もあります。

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『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、全てに勝利したと記述されています。

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関ヶ原の戦い(1600)では父が東軍の黒田家に仕官していた黒田家の文書があり、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高いといわれます。(当時の一乗寺下り松の一部が祠に納められています。)

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武蔵は21歳頃のとき、蓮台野で道場主・吉岡清十郎、三十三間堂でその弟・伝七郎を倒し、「一乗寺下り松」で、吉岡一門の70数人を相手に戦うことになりました。(武蔵の決闘以前から昭和20年頃まで生きた大木の古株です。)

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武蔵は必勝祈願のために当神社を訪れてこの戦いにも勝利、吉岡一門は剣術指南を廃業したといわれます。2003年一乗寺下り松の決闘から400年の記念事業としてブロンズ製の宮本武蔵像が建立されました。

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この時の武蔵の心境は吉川英治の「随筆 宮本武蔵」(講談社)に書かれており、参拝に訪れた事実は細川藩の「二天一流」の門弟間に伝えられていた伝聞を記録した『二天記』に記されています。二天一流は武蔵の剣法の流派です。

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一方、『吉岡伝』(1684)では、1戦目は吉岡直綱が対戦して武蔵が出血したので、吉岡が勝利または引き分け、2戦目は吉岡直重が戦うことになっていましたが武蔵が現れず、3戦目はなかったことになっています。(八大神社を出て坂道を下ります。)

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また、剣術指南を廃業したのは別の理由としています。ただし、吉岡伝の対戦相手が武蔵と同定できず、他にも確認できない対戦者が登場するなど創作の可能性が高いといわれています。(曼殊院道の交差点と八大神社の鳥居)

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著名な染色家の吉岡幸雄氏は、吉岡家に武蔵が果し合いをしかけて敗れ、剣を捨てて弟子の中国人・李三官がたけていた黒染をもとに染屋をはじめたことが伝わっていると述べています。交差点の南西の角に5代目の一乗寺下がり松があります。

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大坂の陣(1614、15)では、水野勝成の客将として徳川方に参陣して活躍したことが多数の資料から裏付けられています。その後、姫路藩主・本多忠刻と交流、明石では町割(都市計画)を行い、城や寺院の作庭を行いました。

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1624年、尾張国に立ち寄り、円明流を指導。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられました。 「宮本 吉岡 決闘之地」の石碑、

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1626年播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させました。「大楠公戦陣地」の石碑 南北朝時代の1336年、足利軍と対峙する武将・楠木正成がこの地に陣を構えました。

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交差点から曼殊院道を少し行くと、このあたりの地名の由来となった「一乗寺址」の石碑があります。一乗寺は、平安中期から中世にかけここにあった延暦寺の末寺、園城寺の別院で、南北朝の動乱以後に廃絶しました。横の建物は一乗寺の集会所です。

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島原の乱では、小倉藩主・小笠原忠真に従い伊織が出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣しました。乱後の武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことが書かれています。向かいに「雲母(きらら)坂お茶所」

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1640年熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ、屋敷とともに7人扶持18石に合力米300石が支給され破格の待遇で迎えられました。横に元禄2年(1689)創業の雲母(きらら)漬けの「穂野出」があります。

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この頃、余暇に制作した画や工芸などの作品が今に伝えられています(上の写真)。また、熊本近郊の金峰山の岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始め、死の直前まで続きました。

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五輪書は武蔵の兵法や哲学を密教の五輪(五大)になぞらえて五巻に分けて書かれ、英語をはじめ数か国語に訳されて海外でも読まれています。オリンピックを五輪と訳すのはこの書が由来だそうです。

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コメント

宮本武蔵。この人物も有名ですが、
ところどころに空白がありますよね。
この空白が歴史の面白さなのですが、
タイムマシーンができれば見に行ってみたいものです。
凄い空白があったりしそうな気がします。

投稿: munixyu | 2021年5月31日 (月) 18:37

★munixyuさん こんばんは♪
一方で、毎日のように日記を書いた歴史上の人物もいますね。その人物が見た歴史を知ることができて、ある種のタイムマシーンかも知れません。

投稿: りせ | 2021年6月 2日 (水) 02:52

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