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2021年5月30日 (日)

石川丈山と詩仙堂のサツキ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在外出自粛中で、人物や歴史、物事に焦点をあてて今までの記事を再編集しています。今日は石川丈山の生涯をたどりながら、サツキが咲く詩仙堂をめぐります。

「詩仙堂」は、山号を六六山、正式名称を詩仙堂丈山寺という曹洞宗の寺院で、永平寺の直末寺です。山門には石川丈山筆の「小有洞」という扁額が掲げられています。

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石川丈山は安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将・文人です。「詩仙堂」は寛永18年(1641)に丈山が隠棲のため建立した山荘で、山際のでこぼこした土地に建つので凹凸窠(おうとつか)とも呼ばれます。左が拝観受付の庫裡。

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石川丈山(1583-1672)は、三河国泉郷(現安城市和泉町)の代々徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家に生まれました。父は石川信定、祖先は、源義家の第六子義時と伝えられています。「本堂」の一階から前庭。

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秀吉が天下統一した頃、丈山は官に仕えようとしましたが父が許ず、13歳の時ひそかに家を出て忍城(埼玉県)にいた祖父の弟・石川遠江守信光の元に行きます。慶長3年(1598)16歳の時に父が死去しました。

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親戚の松平正綱が丈山の境遇に同情して家康に話したところ、家康は石川家は代々武勲の家柄なので遺族は厚く庇護したいからと、丈山を召出して近習としました。 本尊の馬郎婦観音(めろうふかんのん)は 所願成就・学業成就にご利益があるとされます。

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慶長5年丈山18歳の時、関ヶ原の戦いで戦功をあげ、家康は武勇とその忠勤を愛でて、寝所の側に侍せしめたといいます。慶長12年落成した駿府城が炎上し、当時5歳の徳川頼房(家康の第11子、のちの水戸藩主)と乳母が取り残されました。

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これをみた丈山は、衣に水をかけて火の中から2人を救出しました。この縁で、後年水戸家が丈山を召し抱えようとしましたが、丈山は辞退したといわれます。蹲踞(つくばい)があります。

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慶長20年(1615)の大坂夏の陣では、長年参禅した駿河清見寺の説心和尚に武勲を誓い出陣しますが、腸チフスにかかり生死をさまよってしまいます。そこに、母から「特別の戦功を立てなければ母は再びお前に会わない」との激励の手紙を受け取ります。

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丈山は奮戦するも、軍令に反して抜け駆けの先登(一番乗り)をしたことを咎められ、蟄居を申し付けられました。 丈山が寵臣だったので家康は一層厳しく戒めたといわれています。(となりの書院に向かいます。)

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叔父の本多正信は何とかとりなそうとしましたが、丈山は浪人となって上洛、髪を切って妙心寺に隠退してしまいました。 翌年、母の病を聞いて江戸に行き、看病をしながら文筆活動に励みます。その後、病気が全快した母を伴って京都に帰ります。

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元和3年(1617)再び江戸に赴き、知人の林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事し儒学(朱子学)を学びました。この頃になると、丈山は文武にすぐれるとの評判がたち水戸・紀伊家をはじめ、各所から仕官の誘いを受けます。(書院から庭へ)

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隠退して風雅の道に親しんだ丈山は当初はきき入れませんでした。しかし、老母のことが気がかりで、本多出羽守のすすめもあり、紀伊の浅野長晟侯に仕えました(36歳)。

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ところが、浅野侯に仕えること数ヵ月、やがて仕官にあきたらず、壁に「白鴎(區鳥)は野水に停まらず」と書いて、京都へ帰ってしまいます。京都へ帰った丈山は、また自適の生活を送りました。

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紀伊の浅野侯のもとを去って5年後、板倉重昌が丈山の窮乏を憂い、紀伊から広島に転封された浅野侯に頼んで、丈山に再び仕えるようにすすめます。本堂は3階建て、3階には「嘯月楼(しょうげつろう)」があります。

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客人待遇で千石を給するとのことで、丈山は老母に孝養のために再び浅野侯に仕えることにしました(41歳)。丈山の広島在住は前後14年間に及び、その間しばしば京都に出向き、老母を名勝地に伴ったそうです。

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丈山53歳の時に母が亡くなり、引退を願い出ますが藩主はなかなか許しません。年が明け、とうとう病気療養のため有馬温泉に行くと称して、広島を去ってしまいました。

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「鹿(しし)おどし」 添水あるいは僧都ともよばれます。農民が猪や雀をおどすために考えたもので、この地が山麓にあるので、鹿や猪が庭を荒らすのを防ぐために設けられたそうです。庭の趣向として、丈山が初めて用いたともいわれています。

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京都に戻った丈山は相国寺の近くに睡竹堂(すいちくどう)を造り住みます。寛永15年(1638)京都所司代板倉重宗が幕府に仕えるようにすすめるも謝絶。重宗とは同郷の旧知の間柄で、しばしば重宗を訪ねています。

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そして、終の棲家に適する地を探し、丈山59歳になってようやく洛北の一乗寺村に凹凸窠を建てたのです。石川丈山像(狩野探幽筆、詩仙堂蔵)

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その建設費は、丈山が愛蔵する書籍を売り、衣食を節して捻出したもの、あるいは、浅野侯が、丈山は有馬に入湯したついで京都に帰ったもので、正式に辞職したものではないとして、4年間の俸禄四千石を給付したからであるともいいます。

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丈山は敬愛する中国歴代の詩人36人を選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内に掲げました。このことから凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになりました。(小さな池があります。)

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丈山はこの詩仙堂で学問に没頭し、隷書、漢詩の大家としても知られます。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に石川丈山が記載され、煎茶(文人茶)の祖ともいわれます。茶室「残月軒」

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また、作庭の才能にも恵まれ、東本願寺・渉成園や一休寺にも丈山作庭といわれる名園があります。この頃、後水尾上皇からお召しがありましたが「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断りました。

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上皇はその意思を理解して歌の「老の波たつ」を「老の波そう」と手直しして返したといいます。丈山は詩仙堂で30年余りを過ごし、寛文12年 (1672) 90歳でその生涯を閉じました。生涯独身でした。

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ところで、丈山が鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗とともに、江戸幕府の意を受けて朝廷や公家の監視をする隠密だったという説があります。真偽は不明ですが、多才で様々な分野で足跡を残す一方で私生活は謎の多い人物だったようです。

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また、晩年は訪れる人が多く、丈山は故郷の三河に戻りたいと幕府に申し出るも、板倉重宗が許しませんでした。憤慨した丈山が先ほどの後水尾上皇が手直した歌を送ったといわれます。「方明峰閣」(坐禅堂)

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「瀬見の小川に夕涼みにも出かけられない」という嫌味でした。後世、与謝蕪村はこの歌に対して「丈山の口が過ぎたり夕すずみ」と詠みました。

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自由奔放で我儘(わがまま)ともいえる石川丈山でしたが、皆から愛された人物だったのも事実です。

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