雪の京都 鷹峯・光悦寺
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
現在外出を自粛して、京都に大雪が降った日の風景をお届けしています。先日の記事の源光庵の向かいに光悦寺があります。
「光悦寺」は山号を大虚山(たいきょさん)という日蓮宗の寺院です。江戸時代初期の元和元年(1615)本阿弥光悦(1558-1637)が徳川家康から与えられた地に草庵を結んだのがその始まりです。
光悦は刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の長男でした。(紅葉の頃にこの参道が撮影禁止になったのは近年のことで、かっては自由に撮影できました。)
光悦は書画、蒔絵、漆芸、作陶、茶の湯など様々な分野の芸術家として知られていました。書は寛永の三筆の一人と称され、光悦流の祖と仰がれています。(拝観受付の前に、珍しい茅葺き屋根の鐘楼があります。)
ここに光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住んで芸術の村となりました。人々は法華宗徒の仲間でもあり、「法華題目堂」が建てられました。下は「本堂」で、本尊の十界曼荼羅を安置しています。
庭園には7つの茶室が点在し、いずれも大正時代以降の建物で、光悦の時代の建物を再建したものもあります。「三巴(さんぱ)亭」大正10年(1921)に建てられた数奇屋建築で八畳2室、水屋等からなります。
「光悦垣」竹を粗く組んだ垣で、組子は2枚合せの割竹で菱目に組まれています。最上部の玉縁は細割竹を束ねて太く作られ、弧を描いて地面に届き、臥牛(がぎゅう)垣ともいわれます。地表少し上に半割竹の押縁が渡されています。
左にある大虚庵の露地庭の仕切りに用いられ、長さ18mあります。片側が次第に低くなり地面に消えることから、遠近法によって庭を広く見せる効果もあり、現在では様々な場所で見られます。
当時鷹峰は京の七口の一つ長坂口があり通行の要衝でした。家康がこの地を光悦に与えた理由には諸説ありますが、公家や有力商人との人脈もあった光悦を、後水尾天皇のいる都から遠ざけようとしたというのが有力な説です。
「大虚庵」大虚庵は光悦が営んだ居室の名称で、光悦寺の山号のもとになっています。この茶室は大正4年(1915)に新たに建てられたもので、道具商・土橋嘉兵衛の寄付、速水宗汲の設計です。右に光悦垣があります。
「了寂(りょうじゃく)軒」 大虚庵の向かいにあり、かって題目堂があった場所と伝わっています。光悦は、俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者としても知られ、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きいといわれています。
1637年、光悦は大虚庵で亡くなり、没後、草庵は本法寺12世・正教院日慈(にちじ)を開山として日蓮宗の寺院となりました。了寂軒の近くに「光悦の墓」があります。
「翹秀軒(ぎょうしゅうけん)」 ここまで紹介した建物は拝観順路にそって南斜面に上から下に並んでいます。この茶室は、紙屋川の渓谷上の見晴らしのよい場所にあります。
翹秀軒には長い軒があり、その下から鷹峰三山や京都市内が見渡せます。左が鷹ヶ峰、右が鷲ヶ峰で、市内はそれらの左、天ヶ峰は右にあり写真には写っていません。
翹秀軒のそばに光悦の養子の光瑳(1578-1637)と孫の光甫(1601-1682)の墓があります。光瑳は光悦の従兄弟でしたが、光悦の嫡男徳善が元和9年(1623)に亡くなったため、養子となり後を継ぎ加賀前田家に仕えました。
光瑳は書を光悦に学び、門人中随一の能筆といわれましたが、謙遜して短冊一枚書かなかったそうです。また、刀剣の研ぎに関してはすべての工程で名人といわれました。散策路の東の端にある「本阿弥庵」と待合。
光甫(こうほ)は光瑳の長男で、家職である刀剣の鑑定に加えて、茶道、書画、陶芸、彫刻に優れ、光悦の遺風を継ぎました。家業では光悦を越えるともいわれました。晩年には楽焼のほかに信楽焼を多く作り、空中信楽と称されたそうです。
ところで、京都府でも新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言解除の動きが始まっており、明日以降の記事でお知らせします。(本阿弥庵の待合から)
光甫は81歳で亡くなりました。その直前に光悦村は幕府に返却され鷹峯村に吸収されましたが、光悦寺だけが現在まで残されています。
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コメント
緊急事態宣言の解除、
今回はかなり慎重になっている感じですね。
緩めると第4波に繋がりますし。
ただ、もう少し医療関係を休ませるという意味で、
解除を遅らせて欲しいと僕は思います。
投稿: munixyu | 2021年2月 9日 (火) 13:01