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2021年2月16日 (火)

雪の京都 大原念仏寺と出世稲荷神社

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在、過去に大雪が降った日の風景をお届けしています。暖かい日が続き、梅の開花も進んでいる頃だと思いますが、もうしばらく外出を自粛するつもりです。

先日の記事で大原・来迎院を訪れたあと、三千院の石段下まで来ました。大原のバス停への坂道を下らず、三千院とは逆方向の山沿いの道を行きます。呂川の橋のたもとに出世稲荷神社の標識を見つけて、ちょっと嬉しくなりました。

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この道は三千院へのかっての参道(旧街道)だと思われ、道沿いに道標や石仏があります。この日は大原の里の雪景色が見渡せました。

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すぐに「大原念仏寺」があり、かっては由緒が分かりませんでした。2015年の秋「後醍醐天皇の皇子で、後の天台座主・尊雲法親王によって、三千院の塔頭寺院として開山された」ということを知りました。

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「護良(もりよし)親王」は鎌倉時代の延慶元年(1308)に生まれ、6歳の頃に「尊雲法親王」として梶井門跡(後の三千院に)入りました。17歳の時(1325)には門跡を継承して梶井門主となります。

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この大原念仏寺を建立したのはこの時期だと思われます。この頃の梶井門跡は、市中に寺院を持つ一方、大原にもお堂や(塔頭)寺院がありました。

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さらに、親王は19歳から22歳の間に2度にわたり天台座主となりました。一方、武芸を好み、日頃から鍛練を積む珍しい座主であったといいます。

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元弘元年(1331)に後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動「元弘の乱」を起こすと、護良親王は還俗して参戦します。鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による「建武の新政」では、征夷大将軍、兵部卿に任じられます。

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しかしながら、もう一人の討幕の功労者、足利尊氏とは相容れず、父の後醍醐天皇とも不和となります。状況を変えようとして護良親王は自ら令旨を発して兵を集め尊氏討伐に乗り出します。

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一説では、父・後醍醐天皇の密命を受けて足利尊氏を討つ計画を立てたともいわれます。しかしながら、尊氏がこの令旨について後醍醐天皇に詰め寄ると、天皇はあずかり知らぬことと突き放しました。「本堂」

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結局、護良親王は皇位簒奪(資格がないものが皇位を奪うこと)を企てたとして役職を追われ、足利軍に捕えられ殺害されてしまいます、享年28歳。(本尊の阿弥陀如来は親王の護持仏と伝えられます。)

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長年、護良親王は皇室に対する反逆者とみなされてきましたが、現在では皇位簒奪は濡れ衣であるというのが定説だそうです。文化14年(1814)念仏寺は火災にあい、詳しい由緒も焼失してしまいました。

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三千院門跡第56世堀恵慶大僧正は、念仏寺は古くから地元の回向寺でもあることから復興を発願、上野の浄名寺に赴き地蔵比丘妙運大和尚誓願による八万四千体地蔵尊の内、第五万四千九百四十二番を念仏寺に勧請。

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現在の境内地に高橋三広氏が造仏した等身大石仏(おそらく上にある写真)を建立して開眼供養を修し、昭和13年になって念仏寺は再建されました。

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念仏寺を後に、さらにこの道を南に行きます。

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この道は三千院に近いのですが、あまり人通りが多くありません。ところどころに駐車場がありますが、多くの観光客は呂川沿いの参道を上ってきます。

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「出世稲荷神社」 かって上京区の千本通にありましたが、数年前にこの地に移転してきました。

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出世稲荷神社は、天正15年(1587)に豊臣秀吉が聚楽第を造営するときに、邸内に日頃信仰していた稲荷神を勧請しました。(最初に斜面の上にある奥の宮に行きます。)

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翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸して稲荷社に参拝したときに、立身出世を遂げた秀吉にちなんで「出世稲荷」の号を授けたとされます。(奥の宮)

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聚楽第が取り壊された後も元の場所に鎮座していましたが、江戸時代前期の寛文3年(1663)に二条城西の千本通沿いに遷座しました。(ここの狛犬はなんとなく愛嬌があります。)

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出世開運の神として大名や公家から庶民にいたるまでの崇敬を受け、江戸時代後期には庶民が寄進した300本を超える鳥居が立ち並んでいたといいます。(笑う狛犬という方もいます。)

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近代には、千本通界隈が映画興行の街として繁栄したため、牧野省三や尾上松之助が鳥居を寄進しました。奥の宮には出世稲荷大神(稲倉魂命)が祀られています。

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近年になると、近くの千本通がオフィス街となり、地域に氏子はいなくなり、多額の寄進をする信者もなくなったため、最近はさい銭やお守りの販売、5台前後の駐車場の収入で運営してきたそうです。(左右の鳥居は、牧野省三・尾上松之助等の奉納)

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当時の社殿は明治以降に建てられ、文化財の指定がありませんでした。(この石柱は、牧野省三・尾上松之助等の寄進で向拝が新築された記念碑で、かっての社殿の前に建っていました。前に台石があり遥拝所を兼ねているようです。)

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結局、老朽化した社殿の全面的な修復費用がないので、境内地を売却、平成24年7月に大原のこの地に移転しました。宮司さんによると「苦渋の決断だが、場所が変わっても出世稲荷神社を残すことが一番と考えた」そうです。「大神宮」

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三石大神(右から福石、寿石、禄石) かっては博徒相場師が信仰しており、現在では勝負の神として強運祈願が行われているそうです。狛犬は侠客・新門辰五郎の奉納。

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一番奥にある「水天宮」、安産・子授けの神を祀ります。

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ところで、京都府の発表によると新型コロナウイルスの新規感染者が減少、病床のひっ迫率も改善しているそうです。今月12日からは緊急事態宣言の解除要請の基準を満たしています。

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緊急事態宣言の解除要請については、専門家の意見や、大阪府・兵庫県との協議を踏まえて慎重に判断するとしています。(旅館だった建物を社殿・授与所として利用しています。)

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社殿には、清水焼陶工・六代目清水六兵衛作の御神体や堂本印象が奉納した「雲龍図」などを安置していて、自由に拝観できます。

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堂本印象がこの旅館に滞在してここの景色を好んだことが、移転した後で分かったそうです。また、三千院の客殿は聚楽第を取り壊した廃材で作られていて、宮司さんは「この地に導かれたかのような気がしている」と語ったそうです。

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かって程ではないですが全国から参拝に訪れる方も増え、大原の人々にも親しまれて節分祭は盛大に行われているそうです。

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コメント

今回の緊急事態宣言の解除は、
タイミングが難しいでしょうね。
第四波が来ようものなら、菅内閣が終息してしまうので、
簡単には、解除できないと思います。
3月まで解除して欲しくないと思いますが、
はたしてどうなるのか。

投稿: munixyu | 2021年2月16日 (火) 15:19

★munixyuさん こんばんは♪
関西の3府県も基準を満たしても、実際に解除を要請するか難しい判断を迫られていますね。

投稿: りせ | 2021年2月18日 (木) 01:40

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