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2021年1月15日 (金)

雪の京都 三千院参道から勝林院へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日京都府にも緊急事態宣言が発令され、繁華街の人出は少なかったようです。夜8時以後開いている飲食店が見当たらず、困っている旅行者がインタビューされていました。今日は大原の雪景色の1回目です。

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上は三千院参道にある志ば久さんの「しそ畑」、下は「松門(しょうもん)」お隣のドレッシング「志野」が運営する洛北野菜のレストランです。

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西日本を寒波が襲った日の翌日、京都の市街地には積雪はありませんでしたが大原は雪景色でした。

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いつものように、志ば久さんの菜の花畑に立ち寄っていきます。

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かっては菜種油を搾るため大原一面にアブラナが植えられていたそうです。現在では食用の菜の花畑がわずかに残っているだけです。

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このあたりには、春は菜の花、秋はコスモスが一面に咲きます。向こうは大原の里の見晴らし台でベンチも置いてあります。

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参道に戻る途中に「椿地蔵」 かって惟喬(これたか)親王に仕えた久保家に祀られていた鎮守でした。大きな椿の下にあるのでこの名で呼ばれるようになりました。惟喬親王は文徳天皇の第一皇子でしたが、藤原良房の下で皇位につけませんでした。

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参道への橋の前にアイスきゅうりの元祖「志ば久」さんがあります。

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三千院参道の石段下に来ました。

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門前通りは雪かきがしてありました。

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どこにも立ち寄らず先を急ぎます。

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三千院は後で訪れることにして、真っすぐ進みます。

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律川を渡ります。

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勝林院の前に来ると、いつもと様子が違います。五色の綱が本堂から外まで伸びています。この綱は本尊の手につながっていて、外から(拝観料を払わなくても)本尊の手に触れることができるようになっていました。

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「勝林院」は、平安時代初期の承和2年(835)慈覚大師円仁によって開かれ、来迎院とともに天台声明の根本道場でした。

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平安時代中期の長和2年(1013)寂源によって再興され、勝林院と称しました。寂源は左大臣・源雅信の子で右少将の時に出家したので、大原入道少将とも呼ばれました。この頃、は藤原氏が権勢を誇った時代で、藤原道長、頼通らの信仰を集めました。

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平安時代末の1156年、大原に梶井門跡の政所(後の三千院)が設置され、来迎院や勝林院などを管理しました。本堂は江戸時代(1736年)に焼失、1778年に徳川家の寄進により後桜町天皇の常御所を移して再建されました。

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本堂には本尊の阿弥陀如来、左に不動明王立像、右に毘沙門天立像の脇侍が祀られています。本堂正面の欄間、蟇股、手狭、木鼻などに見事な彫刻が施されています(写真は省略)。

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 鎌倉時代初めの文治2年(1186)に、後に天台宗座主となる顕真が浄土宗開祖の法然をこの寺に招き、高僧たちの前で宗論(大原問答、大原講義)が行われました。 

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大原問答では、約300名の観衆の前で、法然と約20名の高僧たちとの間で激しい議論が行われました。法然は高僧たちの質問に対して明確に応答し、浄土の宗義、念仏の功徳を説き、弥陀本願の深い妙旨を語り、

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集った多くの人々が信服したといわれています。また、法然が念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と主張したとき、本尊の手から御光が射したので「証拠の阿弥陀」と称さています。

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本尊の前に「問答台」があります。

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本堂の右手の斜面、 左から「日吉山王社」、「観音堂」、鎌倉時代の正和5年の銘がある「石造宝篋印塔」(重文)、梶井門跡らの供養塔が並んでいます。

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「鐘楼」は江戸時代の安永年間(1772-1781)に再建されたものですが、「梵鐘」は平安時代前期の作といわれ重要文化財です。

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この池では天然記念物のモリアオガエルが産卵するそうです。

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ところで、先日放映されたNHKの「歴史発掘ミステリー 京都 千年蔵」では、全国の専門家15人とともに下の2棟の蔵の中身を全部出して、仏像や絵画、古文書など1853点の文化財を徹底調査しました。

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その結果、織田信長、明智光秀、足利義満から藤原道長などの歴史的重要人物とのつながりを示す資料が明らかになりました。浅井長政の実効支配を示す朱印状から、信長の比叡山焼打ちは追い詰められた結果ではないかと推察され、

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光秀の朱印状は短期間にもかかわらず緻密な統治権の確立を目指したことを示しています。一方で、家康が納めた稔侍仏の行方、義満の鮮明な肖像画や多数の天女像の存在など、新たに多くの謎が生まれました。

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勝林院の前に大原問答に臨む法然が休息したという「法然腰掛石」があります。この後、額縁庭園で知られる宝泉院に向かいました。

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