« 府道131号と最近のニュース | トップページ | 太子道(旧二条通)を歩く 広隆寺から蚕の社まで »

2020年10月24日 (土)

大酒神社と悟真寺 2020年10月

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Amw_3731a
※写真は全てクリックで拡大します。

広隆寺から府道131号を北東に行ったところに大酒神社があります。「大酒(おおさけ)神社」は広隆寺の桂宮院(けいくういん)内に伽藍神(鎮守)として祀られていました。

Amw_3725a

日本書紀によれば、古墳時代の356年、秦始皇帝子孫という功満王(こうまんおう)が戦乱を避け日本に渡来し、始皇帝の神霊を勧請したことに始まるとされます。石柱には「蠶(蚕)養機織管絃楽舞之祖神」、「太秦明神、呉織神、漢織神」と刻まれています。

Amw_3733a

当初は大辟(避)(おおさけ)神とよばれ、災難除け、悪疫退散として信仰されたといいます。372年功満王の子・弓月王(ゆづきのおう)は、百済から127県の民18670人とともに移住、朝廷に金銀玉帛などの宝物を献上しました。

Amw_3735a

弓月王の孫・秦酒公(はたのさけのきみ)は移民らを統率し、養蚕を広め、絹綾錦などを織り朝廷に献上、大辟神社の境内に呉服漢織の神霊を祀りました。

Amw_3737a

平安時代の849年大辟神は従五位下を授与されました。972年の「延喜式」神名帳では、葛野郡に大酒神社の名がのっていて、もとの名は大辟神と記されています。治水・灌漑事業などを行った秦酒公の功績を讃えて大酒神社に改めたと考えられています。、

Amw_3740a

平安時代中期の1068年には大酒神社は神階の最高位・正一位を授けられました。鎌倉時代以後は、大酒明神とも呼ばれ、桂宮院にあった石を神体に、その鎮守として祀られたといわれます。

Amw_3742a

現在の本殿には秦始皇帝、弓月王、秦酒公を祀っています。別殿に呉織神(くれはとりのかみ)、漢織神(あやはどりのかみ)を祀ります。日本書紀によれば、呉織神・漢織神は、渡来した4人の織女のうちの二人とされます。

Amw_3759a

明治の神仏分離令によってこの地に移転、1970年には府道131号が開通して境内の南東半分が削られました。

Amw_3761a

大酒神社の西隣に、自然幼稚園(左)と悟真寺(右)があります。前には園児のお迎えの自転車が並んでいます。

Amw_3600a

「自然幼稚園」は学校法人美乃里学園の経営で、基本理念は「仏教(浄土宗)のおしえを基に、幼稚園教育要領に即した保育を行い、生きる喜びを実感する経験をつみ、豊かな心を育てる保育をめざす。」だそうです。

Amw_3602a

「悟真寺(ごしんじ)」は正式名を終南寺善導院悟眞寺という浄土宗の寺です。円山応挙とその一族の墓があり「応挙寺」ともよばれています。

Amw_3606a

鎌倉時代の永仁年間(1293-1299)、道光が五条坊門に開き、後に三条に移転したといわれます。(石碑には圓山應擧誕生地と刻んています。応挙を始めて名乗った地という意味だと思われます。)

Amw_3613a

道光(1243-1330)は相模の宍戸常重の子で、比叡山に上り尊恵に師事、後に浄土宗に改めました。1272年に入洛、法然語録『和語燈録』などを編纂し、三条の悟真寺で鎮西流正統の布教活動を続け、京都三派の一つになりました。山門の向こうは幼稚園です。

Amw_3619a

安土桃山時代の天正年間(1573-1592)に四条大宮西入ルに移転、江戸時代前期には六地蔵以外の四十八か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の第32番霊場になりました。「応挙、2世応瑞、3世応震の墓石修復事業完成記念碑」

Amw_3620a

1951年に現在地に移り、2013年に本堂が再建されました。本堂には本尊の阿弥陀如来像と、地蔵めぐりの札所本尊・養老地蔵を安置しています。内陣格天井に8代・円山慶祥、弟子・真祥が「極楽浄土宝華図」を描いています。

Amw_3625a

「円山応挙」(1733-1795)は丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現・亀岡市)に農家の次男として生まれました。幼い頃から絵を描いていたようで、遅くとも10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入りました。

Amw_3631a

20代の修行期の頃には四条通柳馬場にある玩具商に勤め、京都の風景の「眼鏡絵」を制作しました。眼鏡絵は、左右のレンズを通して2枚の絵を立体的に見せるオランダ渡来の技術です。

Amw_3687a

33歳の頃から「応挙」を名乗り、『七難七福図』、『孔雀牡丹図』、『雪松図』などの作品を描きました。この頃から三井寺円満院の祐常門主と知り合い、豪商三井家が応挙の主要なパトロンとなりました。(右には庫裏と寺務所があります。)

Amw_3639a

兵庫・大乗寺、郷里穴太の金剛寺の障壁画群も代表作とされ、最晩年の『見立江口の君図』や『四季遊戯図巻』は、純粋な肉筆浮世絵ではないが、浮世絵的雰囲気を持つ上方風俗図といわれています。

Amw_3694a

応挙の画風は、近世の日本の画家のなかでも際立って「写生」を重視、その上で日本絵画の伝統的な画題を扱い、装飾性豊かな画面を創造しています。卓越した画技と平明で親しみやすい画風は、衰退した狩野派に代わり人気を得ました。

Amw_3641a

63歳で亡くなり、悟真寺(四条大宮西入ル)に葬られました。上は円山家一族の墓、下の中央は応挙の墓で、法名は円誉無之一居士、墓碑は妙法院宮真仁法親王(1768-1805)の筆とされます(墓地の向こうは東映太秦映画村)。

Amw_3644a

弟子には呉春や長沢蘆雪、森徹山、源琦など著名な絵師が多く、優れた10名は応門十哲といわれます。応挙を祖とするこの一派は「円山四条派」と称され、現代までその系譜は続き、京都画壇の源流となりました。

Amw_3693a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Amw_3722a

|

« 府道131号と最近のニュース | トップページ | 太子道(旧二条通)を歩く 広隆寺から蚕の社まで »

コメント

大酒神社は、物凄く歴史の長い神社なのですね。
古墳時代が起源の神社って、ほとんどないのでは。
火災とかにもならず、よく残ったものですよね。
ご利益がありそうです。

投稿: munixyu | 2020年10月24日 (土) 16:54

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 府道131号と最近のニュース | トップページ | 太子道(旧二条通)を歩く 広隆寺から蚕の社まで »