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2020年10月26日 (月)

蚕の社 秦氏と古代日本の産業革命

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

広隆寺から太子道を歩いて蚕の社まできました。

「蚕の社」は、正式名称を「木島坐天照御魂神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)、略称を「木島神社」といい、養蚕を日本に伝えた秦氏ゆかりの神社です。

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秦氏は、5世紀後半に日本に渡来し、当初は深草を拠点に農業や交易により財力や勢力を蓄え、後に伏見稲荷大社を創建しました。

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6世紀後半には深草から葛野(かどの)に移住し、桂川上流に堰を造り、用水路を引いて嵯峨野の開拓を行います。その用水路は今も各地に残っています。「社務所」

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秦氏は、土木灌漑技術だけでなく、製陶、醸造、養蚕、機織、金工などの当時の日本には存在しなかった先進技術をもたらしました。「祭具庫」

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参道の途中から末社への道があり、入口に「椿丘大明神」の石標があります(写真には写っていません)。

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石堂の中に末社の「白清社」があり、「宇迦之御魂大神」を祀っています。この神は俗にいう稲荷大神で、秦氏の氏神でもあり、神代の昔穀物を作り蚕を飼って織物を作る技術をもたらした神とされます。

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この石堂は、かって古墳の石室だったそうです。神社の北西には弥生時代中期から古墳時代中期にかけての竪穴住居群があり、韓式系土器や初期須恵器が出土していて、秦氏の居住地域だったことが推定されています。

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また、近くの「天塚古墳」や帷子ノ辻の「蛇塚古墳」を含む「嵯峨野太秦古墳群」は秦氏の墳墓だといわれています。したがって、上の石室も秦氏のものである可能性が強いと考えられます。

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拝殿の向こうに本殿があり、周囲は背の高い木で囲まれています。神社の森は「元糺(もとただす)」とよばれています。糺(ただす)は心身を浄めるという意味で、そのための神池は糺の池と呼ばれます。

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平安時代の嵯峨天皇の時(809-823)賀茂明神が下鴨神社に遷され、潔斎(けっさい、物忌み)の場もここから、下鴨の糺の森へ遷されました。そのためこちらは元糺とよばれます。

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秦氏と賀茂氏は姻戚関係にあり、屋根瓦や提灯などに見られる神紋は上賀茂、下鴨神社と同じ二葉葵です。秦氏が創建した松尾大社も同じ神紋です。

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本殿には主神・天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、および瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の5座を祀っています。

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かっての祭神は、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)」で、天照大神とは別の太陽神と考えられています。ただし、明治以後の国家神道の下で、多くの外来の神や日本古来の神は、同等の日本神話の神(皇祖神)に改められました。

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天照御魂神を祀っていた神社の多くは日本神話の神・天火明命(あめのほあかり)を祭神に変えましたが、当神社では上の5座に改められました。

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ただし、当神社の正式名称にはかっての祭神の名が残っています。本殿の左には「八社」が祀られています。

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摂社の「養蚕神社」 秦氏の祖神・蚕養(こかい)の神に加えて、保食命(うけもちのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)も祀ります。現在でも、製糸、織物、染色に携わる人々の信仰があります。

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秦氏が日本にもたらした最新の土木技術や種々の生産技術は、当時の日本に画期的な産業の発展をもたらし、古代日本の産業革命といわれています。本殿の奥も森が広がっています。

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また、平安遷都にも重要な貢献した秦氏ですが、やがて歴史の表舞台から消えてしまいます。そして、賀茂氏が創建した賀茂社(上賀茂・下鴨神社)が、都の守護神として朝廷の祭祀を一手に担うことになります。

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この賀茂氏は平安時代に秦氏との婚姻関係などを通してその宗教的側面を受け継いだと考えられています。本殿の西に「元糺の池」があります。

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竹垣の向こうの池中に「三柱(みつはしら)鳥居」が見えます。明神鳥居を三基組み合せたもので、「京都三珍鳥居」の一つです。この鳥居の創建時期は不明ですが、秦氏ゆかりの鳥居という説があります。

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江戸時代(1780年)に越後屋(三井家)が当社を三井家祈願所として再興しました。現在の三柱鳥居はその後(1831年)の再建で、三本の鳥居が三井家を象徴しているという説もあります。中央に幣帛が立てられ、本殿祭神の神座となっています。

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「元糺の池」では、下鴨神社と同様に「土用の丑」の日に足浸(つ)けの神事が行われます。かっては、三柱鳥居付近から湧き水があり、池は常に水をたたえていたそうです。

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水脈が変化して池が枯れていますが、神事のときには井戸水を汲んで池に流します。こちらの神事も「御手洗祭」と呼ばれていて、おそらくこちらが元祖でしょう。

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平成14年(2002)に行われた発掘調査では、本殿東側にも泉のあったことが判明し、元糺の池には平安時代中期以前の石敷遺構が出土したそうです。

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秦氏は表舞台から消えましたが、この神社は住民や職人らに信仰されて今日まで続いてきました。御手洗祭も近所の方が中心でこじんまりとしていますが、厳かな雰囲気でかっての神事を彷彿とさせるといわれます。

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コメント

6世紀後半の用水路が今も各地に残っているとは。
残るものというのは、残るものなのですね。
それにしても、古代日本の産業革命を起こした秦氏
というのは、凄いですよね。
これもまた何者なのか、見てみたいものです。

投稿: munixyu | 2020年10月26日 (月) 14:34

三柱鳥居のことは聞いていましたが、こちらの神社の歴史や雰囲気を教えてくださるのは、やはり「京都を歩くアルバム」です。
こちらも、次に訪れたいリストに挙げました。
ありがとうございます。

投稿: もっちゃん | 2020年10月27日 (火) 07:06

★munixyuさん こんばんは♪
秦氏はユダヤ王族、あるいはユダヤ教徒という説があるそうですが、信じられません。いずれにしても、日本に数万人も移住してきたことが分かっているのに、その出身が不明なのは不思議ですね。

投稿: りせ | 2020年10月30日 (金) 01:38

★もっちゃん こんばんは♪
お返事が遅れました。コメントありがとうございます。蚕の社に行くには、嵐電の蚕ノ社駅で降りるのが便利です。三条通に面して一の鳥居があります。

投稿: りせ | 2020年10月30日 (金) 01:54

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