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2020年9月29日 (火)

発祥の地をめぐる 曹洞宗と黄檗宗

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、三禅宗のうち臨済宗の開祖・栄西の足跡と各派の大本山を巡りましたが、今日は残る曹洞宗と黄檗宗です。上は萬福寺の総門、下は比叡山ロープウェイから西塔エリアへの山道。

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曹洞宗の開祖・道元(1200-1253)は京都の公卿の久我家に生まれ、1214年 天台座主公円について出家、仏法房道元と名乗りました。山道の途中で分かれ道があり左が道元禅師得度の地です(訪れたことはありません)。

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後に栄西禅師の高弟・明全に師事して修行。1223年に明全と共に宋に渡り各地で学びましたが、明全は1225年に死去。5年後に道元は明全の遺骨を持って帰国して建仁寺に入りました。建仁寺にある「道元禅師修行の地」

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1227年から1229年頃、道元は深草の安養院に閑居しました。安養院はかって深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の深草の宝塔寺付近にあったと推定されています。「道元禅師像」

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宇治興聖寺の「竜宮門」江戸時代の1844年に改築。以下の写真は断らない限り宇治興聖寺です。

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1233年道元は深草に曹洞宗の道場を開創、当初は仏堂しかありませんでした。この頃「正法眼蔵」の最初の巻「現成公案」を執筆しました。「藥医門」江戸時代後期の1846年の建立。

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その後、法堂や僧堂などが寄進・建立されて伽藍を整備、1236年に開堂式が行われ、現在の観音導利院興聖宝林禅寺(興聖寺)と号しました。「本堂」

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墨染の「欣浄寺 (ごんじょうじ)  寺伝によれば1230-1233年頃、道元禅師がこの地で教化に努め、当寺を創建したといわれています。

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高倉通五条下ルの「宗仙寺」山号を大平山という曹洞宗の寺院、道元が京都に創建した三寺の一つといわれています。

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六波羅蜜寺の「曹洞宗高祖 道元禅師御説法遺蹟」1242年頃道元はここで『正法眼蔵』の説法を行いました。しかしながら、興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、1243年波多野義重の勧めで越前に逃れ、後を弟子の詮慧(せんね)に託しました。

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波多野義重は鎌倉時代の御家人、承久の乱で矢を眼に受けて隻眼、越前地頭、六波羅標定衆を務め、道元の外護者でした。道元は越前に逃れた翌年、波多野義重の援助で大仏寺(後の永平寺)を開きました。本尊の釈迦如来像

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その後深草の興聖寺は荒廃し、住持4代で廃絶したといわれます。室町時代の応仁の乱(1467-1477)で伽藍も焼失してしまいました。右は「祠堂(しどう)殿」、正面は「天竺殿」。

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江戸時代前期の1649年、淀藩主の永井尚政が万安英種(ばんなんえいしゅ)を招聘して5世住持とし、宇治の朝日茶園のあった現在地に復興したのが現在の興聖寺です。祠堂殿の「手習観音」

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道元が開いた吉祥山永平寺は曹洞宗の大本山となり、曹洞宗には分派はありません。永平寺の勅使門(唐門)

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ここからは黄檗宗です。

江戸時代前期の1660年、中国からの渡来僧・隠元隆琦(りゅうき、1592-1673)は、幕府から寺領地を得て新寺の候補地を探すため、淀川を遡り宇治川の「隠元橋」付近で下船しました。橋の東に石碑「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」。

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ここまでには紆余曲折がありました。当初は、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じ、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請しました。喜多元規筆「隠元」(重文)萬福寺蔵(1671年)

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隠元は弟子の也嬾性圭を派遣しましたが船が座礁して死亡、やむなく自ら20人ほどの弟子を率いて、1654年7月5日夜に長崎へ来港しました。隠元62歳のときです。以下の一連の写真は萬福寺です。「総門」(重文)

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隠元が宿泊した興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う僧や学者たちが集まり、その数・僧俗数千ともいわれる活況を呈しました。「三門」(重文)

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翌年崇福寺に移りましたが、同年妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(大阪府高槻市)の普門寺に晋山します。しかし、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、寺内の集会も200人以内に制限されました。

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当初隠元の渡日は3年間の約束で、本国からの再三の帰国要請もありましたが、龍渓らが引き止め工作に奔走。1658年には4代将軍・徳川家綱と会見、その結果1660年に山城国宇治郡大和田に寺地を賜ったのです。

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龍渓らが隠元を日本に引き留めたのは当時の禅宗を正すためでした。伝来から400年たち宗派や規律に乱れが生じ、最新の臨済禅とその厳しい戒律を規範とするためでした。1668建立の「天王殿」(重文)

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翌年、隠元は新寺を開創し、旧を忘れないという意味で、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けました。隠元の『黄檗清規』は禅宗各派の更正に大きな影響を与え、曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされました。隠元豆の花。

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隠元には、後水尾法皇や皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依しました。萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、1664年に後席を弟子の木庵性瑫に移譲、松隠堂に退きました。弥勒菩薩の化身「布袋座像」

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1673年正月、隠元は死を予知し身辺を整理し始め、3月には体調がますます衰え、4月2日には後水尾法皇から「大光普照国師」号が贈られ、翌3日に示寂、享年82歳。1668年建立「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」(重文)本堂にあたります。

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その後、50年ごとの遠忌に皇室より諡号を賜わることが慣例となり、1722年霊元上皇より「仏慈広鑑国師」、1772年後桜町上皇より「径山首出国師」、1822年光格上皇より「覚性円明国師」を賜りました。本尊の釈迦三尊像。

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1872年(明治4年)は当時の仏教排除政策を背景として国師号・大師号の宣下はありませんでしたが、同様の宣下は明治9年に再開されました。下は1662年建立の「法堂」

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1917年(大正6年)大正天皇より「真空大師」、1972年(昭和47年)昭和天皇より「華光大師」を賜りました。大雄宝殿にある隠元像

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コメント

道元も隠元も、凄いのは、
当時の船で、生きて日本と中国を行き来できたということです。
やっぱり何かに、守られていたのでしょうね。

投稿: munixyu | 2020年9月29日 (火) 16:54

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