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2020年8月 8日 (土)

歌の中山・清閑寺 2020年夏

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

清水寺の子安塔から南門を出て、清閑寺を目指して山沿いの道を歩きます。

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この道は「歌の中山」と呼ばれ、その名は清閑寺の山号あるいは通称にもなっています。それにはいい伝えがあります。「都名所図会」(1780)によると。

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清閑寺に住む真燕僧都が夕暮れに美しい女が一人でこの道を歩いているのを見て、ひとめぼれして声をかけます。真燕僧都は毎日のように歩いている道にもかかわらず、「清水への道は何れですか」と声をかけたのです。

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すると女は「見るにだに まよふ心のはかなくて まことの道を いかでしるべき」と言い残して消えてしまいました。そのような迷いがあっては、仏の道を知ることができないでしょうと、真燕僧都は歌でたしなめられました。

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真燕僧都は女は仏(観音菩薩)の化身だったのかと自分の不思議な体験を言い伝え、いつしか不思議な女が歌を詠んだ道は「歌の中山」と呼ばれるようになりました。

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歌の中山は清閑寺にとって不名誉な名前なのに、なぜその山号になったのかは伝わっていません。おそらく、その伝承を戒めとして仏の道に精進するという意味があったと思われます。下を渋谷街道が通ります。

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歌の中山は世阿弥(1363‐1443)の傑作の一つ「融」に登場します。この謡曲は源氏物語の光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の第12皇子・源融(とおる)が主人公で、六条河原院を舞台に、人の栄光と時の移り変わりを謡い語ります。

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その中で「語りも尽くさじ言の葉の、歌の中山清閑寺、今熊野とはあれぞかし」とあり、室町時代初めにはすでに歌の中山と清閑寺が対のものだったことが分かります。

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「清閑寺」は山号を歌の中山という真言宗智山派の寺院です。平安時代初めの802年、比叡山の紹継(しょうけい)法師が開創したのが始まりとされます。当初は天台宗延暦寺に属していましたが、後に荒廃しました。

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平安時代中頃の長徳2年(996)、伊予守佐伯公行(きんゆき)が再興して、一条天皇の勅願寺となりました。当時の寺領は清水寺と同じくらい広く、以後皇室とのかかわりが続きました。当時の隆盛は、このあたり一帯の地名・清閑寺町に残っています。

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平安時代末の女官・小督局(こごうのつぼね)は美貌と琴の名手として知られ、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(平清盛の娘)の侍女となりました。

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高倉天皇は当時最愛の寵姫を亡くして悲嘆に暮れていました。見かねた中宮は、天皇を慰めようと小督を紹介すると、小督は天皇の寵愛を一身に受けるようになりました。

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怒った中宮の父・平清盛によって小督は追放されましたが、嘆いた天皇は小督を密かに宮中に呼び戻し逢瀬を重ねました。そして1177年に二人の間に範子内親王が生まれました。(本堂には本尊・千手観音を祀り、その前に「小督剃髪の本堂」の石碑があります。)

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そのことが平清盛の逆鱗に触れ、小督は清閑寺で出家させられました。高倉天皇は退位させられ、その一年後に19歳で亡くなり、遺言によって清閑寺法華堂に葬られました。

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法華堂は失われましたが、その所在地が現在の天皇陵になっています。下は清閑寺の参道石段下から見た「六條天皇陵 高倉天皇陵」。六條天皇は生後7か月で即位、即位式で泣き出して授乳のために中断したそうです。

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高倉天皇即位のため3歳3か月で譲位させられ、史上最年少の上皇となりました。その後、六條院はこの寺で後白河院に養育されましたが、安元2年(1176)11歳8か月で亡くなりこの寺に葬られました。現在は右の石段の上が六条天皇陵。

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小督の正確な没年は分かっていませんが、高倉天皇の墓の横に葬られました。これらの陵墓はかっては清閑寺の寺域でしたが、現在は宮内庁の管轄です。境内には供養塔(宝筐印塔)があります。

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右は「小督の桜」、中央の石は「要(かなめ)石」と呼ばれ、山の間に見える景色を扇に、石を扇の要に見立てています。この石は六條院の小堂跡とされます。

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要石の横に、「願いあらば あゆみをはこべ 清閑寺 庭に誓いの要石あり」(よみ人しらず) 昔から願いがかなうとされる石です。

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「清閑寺窯発祥地」 当寺の僧・宗伯が開いた窯跡です。宗伯は京焼の名工・野々村仁清の師で、江戸時代の寛永年間(1624-1644)からここで色絵陶器を焼きました。後に五条坂に移転を命じられ、この地は清水・五条坂窯業の発祥地でもあります。

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本堂に続く庫裏、以前は人懐っこいワンちゃんが窓から外を覗いていました。ご住職にうかがうと、もとから体が悪く数年前に亡くなったそうです。

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鐘楼の前に「大西郷月照王政復古謀議旧跡」の石碑があります。西郷隆盛と清水寺成就院の住職・月照が、ここの茶室・郭公(かっこう)亭で密談をしました。月照は尊皇攘夷派の僧侶で、二人は安政の大獄で幕府に追われる身でした。

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二人は薩摩に逃れましたが、薩摩藩は幕府の責任追及を回避するため、二人を東目(日向)へ追放しました。後ろ盾だった島津斉彬も亡くなり、前途を悲観した二人は入水し、月照だけが死んでしまいました。

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明治維新後の明治4年(1871)上知令によって寺領の大部分が没収され、寺は著しく衰退しましたが、昭和初期に境内の整備が行われて現在に至ります。

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本堂の裏にある「成田山不動尊ご分霊」、ご住職は同じ真言宗智山派の成田山新勝寺の大阪別院(明王院)住職を兼任していて、その本尊(不動明王)の分霊のようです。

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山門から高倉天皇陵と小督の墓(木の間)が見えます。

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コメント

「歌の中山」
不思議な話ですね。
女は、本当に仏の化身だったのかもしれませんね。
こういう、嘘か幻かみたいな話って楽しいですよね。
信じたくなってしまいます。

投稿: munixyu | 2020年8月 8日 (土) 16:20

今日は 暑いですね
人は惹かれるものが、いくつになっても在りますね
その方が楽しいもんね
暑さに気を付けてください

投稿: タッチャン | 2020年8月 8日 (土) 16:54

★munixyuさん こんばんは♪
伝説というのは、昔は何らかの噂話だったのかも知れませんね。それを後世に伝えるときに宗教的な解釈をしたとも考えられます。

投稿: りせ | 2020年8月11日 (火) 22:34

★ タッチャンさん こんばんは♪
お返事が遅れました。僧侶も人の子というわけですね。でもそれを教訓として後世に伝えようとしたのはいいところですね。このことは、本人以外に誰も知らないはずですから。

投稿: りせ | 2020年8月14日 (金) 23:50

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