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2020年7月31日 (金)

首途八幡宮と桜井公園 2020年夏

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日千本通を歩いた後、東にある首途八幡宮に立ち寄りました。上は智恵光院通に面した「一の鳥居」。

平安時代の初め、この地は清和天皇の第6皇子・貞純親王の旧跡でした。広い敷地に池や築山があり、桃の木が多く植えられていたといいます。参道の「源平枝垂れ桃」には実がなっていました。

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平安時代の末には、この地には商人・金売吉次(かねうりきちじ)の屋敷があったといわれています。下は「源義経奥州首途之地の碑」、首途(かどで)とは「出発」の意味です。

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1149年、吉次は宇佐八幡宮の神霊を勧請し、屋敷内に「内野八幡宮」を建てたのが当社の始まりです。「二の鳥居」、右は「社務所」。

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「源義経」は清和源氏の流れをくむ源義朝の9男として生まれ、牛若丸と名付けられました。父は平治の乱(1159)で謀反人として敗死、係累の難を避けて、母は幼い牛若ら3人の兄弟を抱いて大和国(奈良県)へ逃れました。

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その後、母・常盤は牛若を連れて都に戻り、兄の今若と乙若は出家して僧として生きることになります。奥に高台(築山)があり、三つの石段(坂道)ががあります。

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後に常盤は公家の一条長成と再婚、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺に預けられて稚児名を遮那王(しゃなおう)と名付けられました。「手水舎」

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やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔、1174年3月3日の桃の節句に奥州平泉の藤原秀衡を頼って京を旅立ちます。八幡宮らしく、あちこちで鳩が見られます。

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その際、当社に立ち寄り、道中の安全と武勇上達を祈願して出立したとされます。以来、首途八幡宮と呼ばれるようになりました。(中央の石段を上ります。)

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当時の東北地方は金を産出、吉次はそれを京で取引することを生業としていました。吉次が鞍馬寺に参詣したとき牛若丸に会い、道案内を頼まれたといいます。(寄進された石柱が並んでいます。)

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牛若丸は、近江国の鏡の宿で自ら元服して「義経」と名乗ったといわれています。石段の最後にある狛犬

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吉次は下総国で義経と行動を別にしましたが陸奥国で再会、その取り計らいによって義経は藤原秀衡と面会しました。

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「本殿」には、祭神として誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇)、比咩大神(ひめのおおかみ)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)を祀ります。

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誉田別尊(応神天皇)は八幡神、他の2柱と合わせて八幡三神と呼ばれています。古来から清和源氏、桓武平氏などを始め全国の武家から武運の神として崇められてきました。

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現在の首途八幡宮には、厄除、旅立、旅行安全、海外旅行安全などの信仰があり、ここが金売吉次の屋敷跡とされることから金運開運、開運招福、夜泣き、癇虫封などのご利益もあるとか。(お札を納める箱にも鳩が。)

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その後の義経についてはよく知られていますが、吉次については諸説あります。行商の途中で強盗に襲われ殺害され、福島県白河市白坂皮籠の八幡神社に吉次兄弟のものと伝えられる墓があります。「授与所」

 

 

 

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一方で、吉次は義経が頼朝と不仲になり奥州に逃れる際にも同行して、当地で病死、栃木県壬生町稲葉にも吉次の墓があます。(一番右の鳥居をくぐります。)

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義経が旅立った3月3日には「義経首途祭」が行われます。「弁財天」が祀られています。

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首途八幡宮の隣に10年ほど前に造られた「桜井公園」があります。その名称は「西陣五水」の一つといわれた「桜井」からです。

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『雍州府志』によると、金売吉次の邸内には大きな井水があり、清冷な水が湧いていました。その後、首途八幡宮の社務所内の井戸「桜井」は、名水として知られるようになりましたが、現在は失われてしまいました。

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桜井公園は市の管理ですが、いつも地域のボランティアの方によって手入れされて、「京都景観まちづくり賞」を受賞したそうです。

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かっての桜井にあやかって、この公園に井戸が掘られ、小川や池の水源となっています。この公園も金売吉次の邸宅跡に含まれ、かっての井戸と同じ水脈だと思われます。

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井戸、小川、池、藤棚、テラスがある公園は珍しく、四季折々に様々な花が咲き、京都で最も美しい公園だという方もいます。子供が水遊びができる公園として知られています。

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夕方になって、人が集まってきました。

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コメント

吉次は、結構歴史的に大きな役割をした
存在なのに、最期がはっきりしないのは不思議ですよね。
でもまあ信長の首といえ、大事なものが残っていない、わからないことって多いのかもしれません。
でもこのわからなさが、歴史を面白くするのでしょうね。

投稿: munixyu | 2020年7月31日 (金) 14:58

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