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2020年7月29日 (水)

足利義昭の生涯 本能寺の変まで

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日はNHKの大河ドラマにちなんで、足利義昭の生涯(前半)を紹介します。とくに断らない場合は写真は足利将軍家の菩提寺・等持院で、説明はほとんどありません。

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足利義昭は、1537年室町幕府第12代将軍・足利義晴の子として生まれ、母は近衛尚通の娘・慶寿院、第13代将軍・足利義輝は同母兄で足利氏22代当主です。(拝観受付がある庫裏)

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足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡(住持)となりました。一乗院は奈良・興福寺の塔頭です。

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後に、興福寺で権少僧都にまで栄進、このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずでした。

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1565年5月の永禄の変で、兄の第13代将軍・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠が松永久通や三好三人衆らによって暗殺されてしまいます。「方丈」

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覚慶も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視されました。しかし、義輝の側近たちや、大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出します。「方丈南庭」

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奈良から脱出した覚慶とその一行は、近江国の六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言します。

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11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により、都にほど近い野洲郡矢島村に進出、在所とします(矢島御所)。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼しています。

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1566年2月、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗し足利義秋と名乗り、4月には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官されました。方丈横の「霊光殿」

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霊光殿には、歴代の足利将軍の木像13体と徳川家康像が安置されています。ただし、5代・義量と14代・義栄の像はありません。下は足利義昭座像。

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義秋は矢島御所で、三管領家の一つである河内国の畠山高政、関東管領の上杉輝虎、能登国守護の畠山義綱らとも親密に連絡をとり、上洛の機会を窺います。六角義賢の働きで、

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織田信長が上洛の兵をあげますが、失敗して撤退、三好三人衆による矢島御所への襲撃事件もありました。さらに六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、義秋は妹婿・武田義統を頼って若狭国へ移ります。

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9月には若狭から越前国の朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請しました。しかし、朝倉義景は同様の足利家の子孫を抱えていて、仏門から還俗した義秋を奉じて積極的に上洛する意思を示しません。

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そのため、義秋の越前への滞在は長期にわたりました。この間、義秋のもとにかつての幕府重臣や奉行衆らが帰参しました。下は、越前国一乗谷の足利義昭御所跡です。

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さらに、京都を実質的に支配していた三好三人衆は、足利義栄を擁立して、朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続け、1568年2月義栄は摂津国滞在のまま将軍宣下を受け、第14代足利将軍となりました。

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同年4月、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招いてようやく元服式を行って義昭と改名、加冠役は朝倉義景が務めました。

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同年9月、信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始、途中で六角義賢の抵抗も退け、父・義晴が幕府を構えていた近江の桑実(くわのみ)寺に移り、さらに進軍して無事京都に到着しました。

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これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退、また9月30日には病気を患っていた義栄も死去。 10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて、義昭は第15代将軍に就任しました。

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将軍に就任した義昭は義輝暗殺と足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させました。下は茶室の清漣亭(せいれんてい)。

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幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実の領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城国の御料所も掌握、行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興しました。

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義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城)を整備しました。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど大規模な城郭風のものとなりました。

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烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府は完全に再興されました。下立売通と室町通の交差点南西に旧二条城跡の石碑があります。

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信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領の堺を含む和泉一国の支配を望んだので、義昭は信長を和泉守護に任じました。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れますが、信長は受けませんでした。

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しかし、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は異なり、両者の関係は徐々に悪化していくことになります。

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信長は将軍権力を制約するために、1569年1月殿中御掟という9箇条の掟書を義昭に承認させ、さらに翌年1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認しました。

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信長に不満を持った義昭は、1571年頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめ、これは一般に信長包囲網と呼ばれています。

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1572年10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付し、義昭の様々な点を批判しました。これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵します。

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東では武田信玄が上洛を開始し、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなどすると信長は窮地に陥ります。

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1573年正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れますが、義昭は信じず一蹴しました。 信長は京に入り知恩院に陣を張ると、幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長につきました。

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しかし信玄の死を知らなかった義昭は烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けました。信長は再度和睦を要請したが、義昭は拒否。信長は威嚇として幕府の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化しました。

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烏丸中御門第を包囲し朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立しました。しかし、7月3日義昭は講和を破棄して南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り再度挙兵。

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ところが、槇島城も7万の軍勢により包囲され、7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、義昭はしぶしぶ降伏しました。

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信長は義昭を京都から追放し、足利将軍家の御料所を自領としました。続いて7月に天正へ改元、8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は瓦解しました。

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京都から追放された後、1575年信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対して和睦をするよう呼びかけ、翌年には毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移りました。

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これ以降の義昭の備後の亡命政府は「鞆幕府」とも呼ばれます。(二つの池の間に、足利尊氏の墓と伝えられている室町時代の宝筐印塔があります。) 

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ところが、義昭が鞆に滞在中の天正10年(1582)6月2日本能寺の変が勃発します。これ以降の義昭は明日に続きます。

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コメント

足利義昭は、結構大変な生き方をしていたのですね。
武田信玄が、もう少し長く生きていたらどうなっていたのか。
歴史の浪漫もありますが、
ただ、生きていても何となく武田信玄は負けていたような気がします。

投稿: munixyu | 2020年7月29日 (水) 14:36

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