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2020年7月30日 (木)

足利義昭の生涯 将軍から秀吉の一大名へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事では、信長に京都から追放された室町幕府第15代将軍足利義昭が、毛利輝元を頼って備後国の鞆(とも)に滞在中に、本能寺の変が勃発したところまできました。写真は足利家の菩提寺・等持院の秋です。

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ここでの義昭が「鞆幕府」とも呼ばれているのは、一定の幕府の要件を満たしていたからです。義昭は征夷大将軍のままで将軍職の政務を続け、信長もそれを覆そうとはしなかったようです。

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また第10代将軍・足利義稙(よしたね)は京都からこの地に逃亡、後に大内氏の支援のもとで京都に復帰した故事もありました。「方丈」と「霊光殿」は改修工事中です。

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備中の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得、足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援もあり、一定の財政的な収入もあったといわれています。

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幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆も伴っていて、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動もしていました。茶室「清漣亭(せいれんてい)」も改修工事中でした。

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ただし、義昭が京都にいた時期の奉公衆のうち、同行し続けたのは2割程度ともいわれます。それ以外の多くは待遇に不満を持っていて義昭を見限ったともいわれています。

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しかし、義昭を見限った奉公衆も幕府の職務から離れて細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれ、義昭に代わって京都を統治した村井貞勝(先日紹介)には登用されませんでした。

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といっても、近畿東海以外では足利将軍家を支持する武家もまだ多く、義昭は鞆から京都への帰還や信長追討を目指して、全国の大名に御内書を下しています。

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このような状況の1582年6月2日、本能寺の変で信長と嫡子の織田信忠は明智光秀に討たれました。このときの光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周など旧室町幕府の幕臣が多くいました。

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同年、義昭は鞆城から山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移りました。 信長の死を好機として、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求め、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行ないました。

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翌年(1583)2月には、毛利輝元、柴田勝家、徳川家康から上洛の支持を取り付けました。この間、信長・秀吉と対決していた毛利輝元が秀吉に臣従し、1585年7月には秀吉が関白太政大臣となりました。

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その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年半続き、秀吉が天下を統一していく期間でもありました。下は東京大学史料編纂所蔵の義昭像で、江戸時代に等持院の義昭像を粗描したものです。

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1587年、秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷を訪れ、そばにある田辺寺で義昭と対面しました。このとき、太刀の交換があったといわれています。

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同年4月には義昭は再度一色昭秀を送って島津義久に秀吉との和睦を勧めました。島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭はようやく(15年ぶりに)京都に帰還できました。

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翌年(1588)1月13日に秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのち受戒し、名を昌山(道休)と号しました。また、朝廷からは准三后の称号を受けました。既に将軍職には未練がなかったようです。

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准三后(じゅさんごう)は、朝廷における太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた経時的処遇を与えられた者のことですが、この頃では名誉称号の一つになっていました。

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秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められました。烏丸中御門第を追われた義昭が最初に立てこもって挙兵するも、降伏した土地です。下は槇島城の石標。

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1万石とはいえ前将軍だったので、殿中での待遇は大大名以上でした。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)には、秀吉の要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣しました。

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晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに御伽衆(おとぎしゅう)に加えられ、秀吉の良き話相手であったとされます。下は修復工事中の方丈と霊光殿。

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1597年8月大坂で死去、享年61歳、等持院に葬られました。老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされています。

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コメント

改修工事は、今しておくのが一番でしょうね。
コロナ禍といえど、ワクチンができると元に戻るわけですから。
何でもワクチンができるまでに、改修しておきたいものですよね。
義昭は、上手くいきそうでいかない、不運な人だったのですね。

投稿: munixyu | 2020年7月30日 (木) 13:41

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