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2020年7月11日 (土)

三好長慶 最初の天下人とその足跡

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

最近、三好長慶(ながよし)が戦国時代の最初の天下人として注目されています。その理由は後ほどにして、長慶の波乱万丈の生涯をたどります。三好長慶画像(英雄百人一首)

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長慶は大永2年(1522)足利幕府の三管領の一つ、細川晴元の重臣・三好元長の嫡男として生まれました。 以下の写真は長慶が天下人となる重要な役割をした勝軍地蔵あたりです。

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『ニ水記』(永正17年、1520年)によると、室町幕府管領・細川高国は京都を離れ近江円城寺に逃亡していましたが、近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、瓜生山に陣を構えました。

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細川高国が戦勝を記念して将軍地蔵を勧請、城は将軍山城と呼ばれました。また、瓜生山は将軍(勝軍)地蔵山とも呼ばれるようになりました。

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父・元長は、主君・晴元の政敵・細川高国を討ち、おおきな功績をあげました。

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元長は本国阿波だけでなく山城国にも勢力を誇っていましたが、その勢威を恐れた晴元や一族の三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、享禄5年(1532)殺害されてしまいました。「北白川幼稚園」

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長慶は両親と堺にいましたが、母と共に阿波へ逃げ返り、わずか10歳で家督を継ぐことになりました。 やがて、一向一揆は享禄・天文の乱へと発展して晴元でも抑えられなくなりました。

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収拾がつかなくなった一向一揆を鎮静化させたのは当時12歳だった長慶でした。長慶が晴元と石山本願寺の一揆勢力との和睦を斡旋したとされます。

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この直後に長慶は元服して、本願寺とともに晴元や政長と戦います。しかし晴元の家臣のとりなしや、まだ若年であることを理由に許されて、その後は晴元の家臣となりました。

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晴元の武将となると、天文5年(1536)摂津中島の一揆の鎮圧に失敗するも、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃して、一揆軍を7月29日までに全滅させました。かって勝軍地蔵があった山頂

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やがて、父の仇の木沢長政は細川晴元に反逆して上洛、第12代将軍・足利義晴と晴元らの軍と天文11年(1542)太平寺で戦いましたが、長慶は援軍として加わり、木沢長政を討ち死にしました。

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天文15年(1546)冬になると足利義晴と細川晴元が対立するようになり、義晴自身が勝軍山城を大幅改修しました。(下は瓜生山山上にあった本丸跡に建つ幸龍大権現の社。)

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翌年、義晴は征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、晴元を討つために洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城しました。(本丸にある将軍地蔵の石室)

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しかし、三好長慶軍が相国寺に2万の軍勢で陣をはり周辺地域を焼き討ちしました。足利軍は将軍山城に自ら火を放ち、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出しました。(大徳寺塔頭聚光院蔵の三好長慶肖像)

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天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意します。しかし、政長は晴元から厚く信任されいたため、長慶は領地の越水城で軍議を開き、もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなすと、決議します。

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長慶は晴元に政長父子の討伐を願い出ますが、聞き入れられません。そのため、かつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻し、政長を討ち取り、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡しました。

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将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立てて晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。この時点で三好長慶は畿内を中心に8か国を支配し、幕府の実権を掌握しました。

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近年、当時の人々がいう「天下」とは「五畿内」(山城・河内・和泉・摂津・大和)のことであるという説が有力となっています。織田信長の「天下布武」は武力で全国を制覇するという意味ではなく、

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五畿内に武(幕府)を再興することを指すという説です。それに伴って、革命児といわれた信長像も、従来の権威を復活させようとする保守的な面もあったとされます。

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正親町天皇(上)は、弘治3年(1557)後奈良天皇の崩御に伴って天皇の位につきました。しかし、当時の天皇や公家達は貧窮しており、三好長慶が洛中棟別を課して税を徴収、2か月後に葬礼が行われました。

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同様に、天下人は畿内を制定して幕府の実権を握った人物というわけです。この意味で、三好長慶は織田信長より20年も早く天下人となりました。 全盛期の永禄3年(1560)には、

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長慶は居城を摂津の芥川山城(上)を息子の義長(義興)に譲り、居城を河内の「飯盛山城」に移しました(下は模型)。その理由は京都から多少離れても、大和や大阪平野への睨みみをきかせせるためといわれています。

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三好長慶の天下人は長くは続きませんでした。永禄4年(1561)に弟・十河一存が急死して和泉の支配が弱まると、晴元の次男・晴之を盟主として、畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。(ここからの写真は将軍・足利義輝が陣を構えた船岡山)

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この戦いは翌年まで続き、もう一人の弟・三好実休(じっきゅう)が戦死しました。翌年には嫡男・義興が22歳の若さで早世、一存の息子・重存(義継)を養子に迎えます。

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しかし、同年12月には名目上の主君・氏綱も病死、三好政権を形式的に権威づける管領職を失ってしまいました。 永禄7年(1564)には弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。

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家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、思慮を失っていたといいます。

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冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。墓所は養子の義継が創建した大徳寺聚光院(下)以外に、八尾市の真観寺や堺市の南宗寺にもあります。

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長慶の死後三好政権は内紛状態に陥り、新たに織田信長と彼が推戴する足利義昭が台頭してきます。その話は別の機会にして、信長の菩提寺、大徳寺塔頭・総見院は聚光院の隣にあります。

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聚光院は非公開ですが、総見院から境内が見え、梅は聚光院のものです。

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コメント

天下を取るには、運も大切だということなのですね。
病死などにならず、全ての駒が揃わないと、
天下は取れないのですね。

投稿: munixyu | 2020年7月11日 (土) 14:33

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